フェミニズム批判

 

4 フェミニズムの陰謀

  (6) 「男女平等」に隠された革命戦略

    ──ジェンダーフリー運動の危険

            (『正論』平成14年8月号掲載)

 

 フェミニズム運動は男女平等を目指すだけの「女・子供の」運動ではない。その背後には日本の革命を目指す勢力、または日本の健全な文化と秩序を内部から崩し、力を弱めようという勢力が隠れている。ジェンダーフリー運動はその勢力が周到に準備し遂行している革命戦略の一環である。

 この革命勢力の常套手段は、口当たりのいいテーマ(たとえば平和と民主主義)を選んで運動をすすめ、その中で秩序や道徳を腐蝕させていくという戦略である。いまは「男女平等」や「ジェンダーフリー」という言葉を隠れ蓑として利用しているにすぎない。

 「それは結構なことだ」と誰もが思う意識の隙をつき、彼らは官僚機構を占拠して(男女共同参画社会基本法をたてに)上から命令を下し、ついには学校教育を握って子供の洗脳をもくろむ所まで来ている。いまや日本中が「文化大革命」の様相を呈しているのである。

 以下、家族を破壊し日本を腐蝕させる彼らの隠された革命戦略を暴き、警告を発したい。

 

序 ここまでやるかジェンダーフリー教育

 

 はじめに問題提起の意味で、衝撃的な事実を明らかにしたい。ジェンダーフリー教育の理念を真面目に遂行しようとすると、ここまでやることになるという典型例であり、ジェンダーフリー思想そのものに潜んでいる危険性を教えてくれるケースである。

 ある高校の家庭科の教師が、授業の中で、出産の場面を写したビデオを男女生徒一緒に見せた。しかもその出産とは水中出産であり、妊婦は全裸であった!

 陣痛で妊婦が声をあげ苦しんでいるシーンから始まって、赤ん坊が出てきて助産婦が取り上げるまでが、リアルに映っていたそうである。

 これを見させられた女子生徒は、「とてもリアルで、男女一緒に見ているという状況に、とまどいというか、気恥ずかしさというか、いたたまれない気持ちで、目をそらしたシーンもあった」と証言している。

 全裸で出産する場面を男子にも見せる、しかもそこに女子も同席させる。これは行き過ぎというよりも、はっきりいってあまりにも異常である。これは人権侵害であり、プライバシーの侵害であり、セクハラである。

 なぜなら、女子生徒は遠からずして同じ状態で子供を産むと誰もが予想できるが、隣にいる男子もそう思うであろうし、女子は男子にそう思われることもまた想像せざるをえない。つまり全裸での自分の出産シーンを男子に見られているのに近い心理状態に置かれるであろう。これがプライバシーの侵害、人権侵害、セクハラでなくて何であろうか。女子生徒がとまどい、気恥ずかしさを感じ、いたたまれなくなったと言うのも当然である。男子もまた同様にとまどいや動揺を感じたはずである。

 ひどい話だが、これは決して単なる「行き過ぎ」ではない。「ジェンダーフリーの原理は正しいが、そこまでやるのは行き過ぎだ」と言ってすませられる問題ではないのである。この授業はジェンダーフリーの原理そのものから必然的に産まれたものだからである。

 ジェンダーフリーとは、「男女の性差は教えられたもの、文化的に獲得されたもの」だという理由で、その差をすべてなくそうという主張である。ただし出産だけは男性にやらせることができないので、せめて出産に立ち会わせて、その苦しみを共に味わわせようということになる。

 出産シーンを男子にも見せるということは、女性の痛みや苦しみを男子にも理解させるべきだという思想があるからである。また、何でも男女同じことを学ばせるべきだという教条主義的な考えもある。この教師はジェンダーフリーの理念を忠実に熱心に実行したのである。

 このエピソードは、決して行き過ぎとして片づけられるべきではなく、ジェンダーフリーの思想そのものに潜む危険を示しているのである。

 

一 ジェンダーは人類の智恵

 

 フェミニストはジェンダー(文化的性差)を頭から「悪いものと」決め付けている。しかし文化的に培われてきた性差は、人類の大切な文化的財産であり、人間にとって必要な智恵の結晶である。

 男女の区別を教え、男は男としての、女は女としての、感じ方や行動をとれるようにしてやることは、人類が生きていくために絶対に必要なことである。男子を男らしく、女子を女らしく育てないと、カップルを作ることもできなかったり、性行動を取ることもできなくなる恐れがある。とくに男子の場合には、心理的に去勢されてしまい、男性の本能行動にとって必要な積極性を失ってしまう者が出てくる可能性がある。

 単に本能行動ができなくなるだけでなく、男子が男らしさに欠けると、男性としてのアイデンティティーを明確に持てなくなり、自身喪失、無気力、現実逃避などの弊害が出る。これらの害は男子に対してとくに大きくなるのである。

 したがって、人類は男女区別を教え込むための文化的な仕掛けをいろいろに発達させてきたのである。もちろん、その具体的な姿は各部族や民族や地域によって異なる。しかしそれぞれに行事や儀礼や教育を通じて、男女の区別を際だたせ、教えこんできたのである。

 たとえば、イニシエーション(参入儀礼)と総称される儀礼は、男女それぞれが大人の男と女になる儀礼であり、男女別々に行われてきた。イニシエーション儀礼においては、子供は抽象的な「大人」になるのではなく、必ず「男の大人」か「女の大人」になるのである。

 文化が発達するということは、男女それぞれの文化が分かれて洗練されていくことであり、日本でも端午の節句と雛祭りがあるように、男女それぞれの儀礼や行事が明確な意味と美しい様式を伴って発達してきた。それらを通じて男女の区別を意識させ、男性または女性としてのアイデンティティーを確立させてきたのである。

 男言葉と女言葉の区別も、こうした文化的発達と洗練の結果であり、男女平等の遅れを示すものではなく、文化的先進性の現われなのである。それをすべて家父長的な遺制であるかのように見るのは大きな間違いである。よく留学生が日本語の男言葉・女言葉の区別を不思議に思ったり、それを日本文化が男女差別をしていた名残りだと受け取る話が、当の日本語教師によって肯定的に報告されているが、日本語を教える者が日本文化の利点について認識できず、単純な差別の問題にすりかえてしまうのは悲しいことである。

 もちろん男女区別文化の中には男女差別が含まれているケースもある。地方には今でも冠婚葬祭のときの食事の席が男性用しかなく、女性は別室で弁当を食べるなどというように、差別の遺制が残っている。そうした差別は当然なくしていかなければならない。

 しかし全体として見るならば、男女の区別を際だたせる文化は、決して支配-被支配の関係のみを表わしているのではなく、人類の智恵と言うべきであり、必要な修正を施しつつ大切に守っていかなければならない祖先の遺産である。

 したがって、ジェンダーからフリーになろうとするのは大きな間違いであり、ジェンダーは人間にとって必要な文化なのである。ジェンダーという男女の区別を示す文化は、身体的本能的な区別をもとに文化的な具体化と洗練化の結果できあがったものであり、生得的な部分と後天的な発達とが結合したものである。たとえば、「男・女らしさ」は生得的なものであるが、どういう具体的性質を「男・女らしい」と考えて発達させるかは、それぞれの文化によって異なる。しかし文化的必要物であることにかわりない。これを文化的に作られたものだという理由で否定するのは、かつての中国の「文化大革命」(という名の文化破壊)と同じ過ちを犯すことになろう。

  整理すれば、ジェンダーフリーは二つの点で根本的な間違いを犯している。第一は「性差は文化によってのみ出来上がる」と考えている点。第二は「文化的性差はなくすべきだ」と考えている点である。

 

二 「崩し」を狙う革命戦略の一環

 

 ジェンダーフリーの持つこの二つの間違った特徴は、決して偶然に生まれたものではない。この特徴がなぜ生まれたかを考えてみれば、ジェンダーフリーの背後にある戦略が見えてくる。

 ジェンダーフリーは「文化」を貶めようとする思想である。性差を文化によってのみ生まれたものと考えた上で、その文化をなくすことを目標にする、文化否定の思想である。

 何のために貶め、何のために否定するのか。それは革命(階級闘争)を勝利に導くためである。その目的のために、現体制の秩序を乱し、道徳を崩し、価値観を混乱させ、体制を弱体化させるのが彼らの隠された動機である。

 そのために、社会の基本的な枠組みを崩すことが、当面の目標になる。人類社会の基本的枠組みの中でも、最も基本的なものが男女の区別である。この基本的な枠組みを崩し、男女の区別にまつわる道徳を崩そうとするのがジェンダーフリーである。

 したがって、ジェンダーフリー教育に熱心な教師ほど性教育に熱心である。その性教育とは、単に性の仕組みを教えるなどという古典的なものではなく、また妊娠の仕組みを教えて「だから性行動は慎重に、責任感と道徳をもって」と性道徳を教えるのでもなく、避妊や中絶の方法を教えるのである。

 つまり「安全」対策を教えることによって、性行動を無制限にしてもいいと言っているようなものである。性に関する道徳や制限(枠)を教えるのではなく、むしろ枠を取り去ることを奨励しているのである。こうした教育が反道徳的、反体制的な精神態度を育んでいき、社会の道徳的基盤を崩すのは火を見るより明らかであろう。

 ジェンダーフリーが反体制運動の中軸として位置づけられ、革命戦略の最も重要な一環になっていることを、われわれは見抜かなければならない。とくに家族という、社会の細胞とも言うべき最重要の単位を崩し破壊しようとしているところに、ジェンダーフリー戦略の危険性がひそんでいる。

 

「革命、階級闘争」は裏に隠す

 しかし、そのような意図や、背後にある階級闘争史観や革命思想は慎重にオブラートに包んで隠されている。ちょうど戦後の革命運動がコミンテルン指導のもと、大衆に受け入れられやすい「平和と民主主義」というオブラートに包んでなされたように、現代の革命運動は「男女平等」という、これまた大衆受けのよいオブラートにくるんで進められている。

 具体的には、公民館などの自治体の公共機関を使い、「女性の生き方」「女性のライフスタイル」などといった抽象的なテーマで、少人数(四〜五十人)の連続セミナーを開く。その中で時間をかけてフェミニズム理論を「学習」させ、洗脳していく。講師の謝礼は公費から支払われる。つまり我々の納める税金から、革命運動の「学習」費用がまかなわれてきた。われわれは知らないうちにこの運動に協力してきたのである。

 そしてセミナーの参加者には必ず住所氏名を書かせ、リストを作り、組織化する。この組織は、たとえば署名を集めるときとか、抗議の電話やファックスを送るとき、また新聞記事への偏った反響、大衆集会などに利用される。

 こうした組織化の方法は、伝統的に共産党のオルグ戦術であり、それは共産党だけでなく、ブントや全共闘、社会党(社民党)その他の革命勢力にも受けつがれた。もちろんフェミニストたちも七十年以降、この方法を絶えず実践してきた。フェミニズムの運動と組織は、少なくとも三十年以上のこうした草の根レベルのオルグ活動という、たゆみない積み重ねの上に成り立っているのである。

 

体制の中に潜り込むという体質

 もう一つ、これら革命政党の特徴として、いかなる組織の中にも潜り込み、仲間を引き込み、増殖し、乗っ取るという特徴が見られる。とくに大学や研究所、行政やマスコミはそうした作戦のターゲットになりやすい。

 それらの組織の中で自らの息のかかった大衆組織を作り、それを背後で操るというのが、コミンテルン以来の伝統的オルグ・組織化の方法は、フェミニズム運動の中にも持ち込まれた。地方議員、国会議員、地方自治体や行政府の公務員、学者、弁護士、ジャーナリストなどのグループごとにそれぞれ組織を作り、それを非公然の革命勢力が裏で指導するという体勢が取られている。

 この十年くらいのフェミニストたちの動きを見ていると、全国一斉に同じ方針を出し、全国一斉に同じ事を言う。作戦(スローガンの出し方、立法化の順番など)や運動のプログラムも、どこかで決定済みであり、表面に出てくるときには、誰もが当然のこととして、その方針のもとで忠実に動いている。いかに整然とした全国組織とその指導部が背後に出来上がっているかが想像できる。

 フェミニズム運動は、革命勢力が背後にいて、綿密に戦略を立て、組織化し、オルグや指導をしているのである。きわめてしたたかで執拗な精神力を持ち、徹底した理論武装をほどこされ、整然と組織だった動きをする、一種の軍団だと認識する必要がある。「女・子供がやっていること」だなどと、たかをくくっていい相手ではないのである。

 

三 フェミニズム戦略の段階的進化

 

 フェミニズム運動は革命政党の指導下、段階的進化をとげて、今や国家内国家の様相を呈している。その戦略の進化を時系列で概観しておこう。

 

理論闘争と組織化の七十、八十年代

 組織化への第一歩は七十年の全共闘運動であった。それまではフェミニズムにはいろいろな派があり、母性本能を肯定する派や、エコロジーフェミニズムや、家族を重んじる派などがあった。しかし七十年を境にして、階級闘争史観に立ついわゆるラジカル・フェミニズムが支配し、それが共産党系のフェミニズムと共闘を組むようになり、統一指導部が成立したものと思われる。その中では、母性を重んずる派やエコロジーフェミニズムはほぼ完全に否定されてしまった。また女性が生涯働き続けることが理想とされ、M字型就労形態も克服されるべき「遅れ」として否定され、「女性の再就職」要求は間違いとして捨て去られた。

 この運動は八十年代末まではほぼ思想・学習運動として発展していった。公民館での「学習」活動を中心にし、それをバックに地方自治体の職員の中に食い込んでいくという作戦が採られた。

 それと並行して弁護士とジャーナリストの組織化も進められた。彼女らは皆「働く」女性であったから、当然のごとくフェミニズムの担い手になったのである。各新聞や雑誌の「家庭」面や「生活」面は彼女らの手に「白紙委任」され、好きなように紙面が作られ、受け手の専業主婦に対してフェミニズム宣伝のシャワーを浴びせるのに使われた。

 

権力の中に入りこんだ九十年代

 九十年代になると、フェミニズム運動の戦略は一新される。国政のレベルで、国家の立法を左右し、フェミニズム的な法律を制定させ、国や自治体の政策としてフェミニズムを実施させる作戦が表面化した。

 まず夫婦別姓法案を画策し、しきりに世論操作をして、何度も世論調査を実施したが、つねに国民の半数以上が反対という結果が出た。業を煮やしたフェミニストたちは、正面突破作戦を立て、「男女共同参画社会基本法」を成立させてしまった。これは単に男女平等を唱う理念的な法律ではなく、既成の観念や制度・慣行を否定し、その否定を権力の力で強制しようとする、極端に偏向した内容の法律である。続いて制定された「介護保健法」も、家族の意義を否定し、介護を家庭の外へと「外注」させることを目的としていた。もちろん同時進行で保育所の拡充も画策され、子育ても家庭の外に出すという戦略が進められた。

 これらの一連のフェミニズム立法が、家族を解体し、個人をばらばらにして国家に従属させる戦略の一環であることは明かである。それはとりもなおさず日本の社会主義化であり、その中で革命勢力が権力を握ることを意味していた。

 九十年代終わりまでで、家族に関するかぎり、共産主義革命の筋書きどおりに進んでいる。古典的な共産主義革命またはクーデターの戦略は、武力で権力を奪取し、同時に放送局を占拠して情報と宣伝を独占するというものである。現代のフェミニズム革命も原理的には同様の筋書きどおりに進められている。すなわちフェミニストたちは政府や自治体の官僚の中に入りこみ、その官僚の力で各種の審議会で多数派を占め(または独占し)、そのようにして国や自治体の政策を左右していく。その政策決定の過程は国民に秘密にされる。たとえば、夫婦別姓法案も、介護保健法案も、秘密(非公開)の審議会で決定され、国民的な討論をさせないでいきなり法案として出され、ほとんど議論しないで成立させようとした。男女共同参画社会基本法も同様の過程で成立している。これは合法的な粉飾をほどこしたクーデターと言うべきである。

 それを支えたのが新聞等のジャーナリズムである。マスコミは当然のことのようにこれらのフェミニズム諸立法を支持するキャンペーンを行った。

 夫婦別姓を促進するための超党派女性議員の集まりで、事務局の役員(ということはつまり裏の指導部)が、次のような意味の発言をした。「われわれはこんなことにいつまでも関わっている暇はない。さらにこの後には、非嫡出児や同性愛者の権利を認めさせる法律がひかえている、だから別姓問題などはさっさと片を付けたい」。

 この発言をみれば、フェミニズム諸立法が何を狙っているか明かであろう。それは国家秩序と道徳の「崩し」と空洞化であり、家族の解体である。

 

二十一世紀は子供のジェンダーフリー化

 二十一世紀に入ると、フェミニズム運動は新たな段階に突入した。今までは女性を家庭の中から外に連れ出すのが戦略目標だった。専業主婦を攻撃し、「働け」イデオロギーによって女性を労働者にするのがその中心的戦略であった。

 しかし今や家庭の中をフェミニズム化し、そうすることで健全な家族のあり方を破壊するのが戦略目標になっている。その道具がジェンダーフリー教育であり、教科書とくに家庭科教科書のフェミニズム化である。

 冒頭に紹介したように、ジェンダーフリー教育は今や極端な男女同型論を宣伝している。男女を隔てる絶対的な壁だと考えられてきた出産までも、男女共同でするべきものというイデオロギーを注入しようとしているのである。

 子供のときに洗脳してしまい、家庭を作るときには、すでに男女同型イデオロギーをもって、完全に「半分こイズム」で家族を形成させようという作戦である。

 狙われているのは、家庭の中からの、いや心の中からのフェミニズム化である。それを国家権力の権威を使って、すなわち教科書を使って公教育の場で行おうというのである。

 ジェンダーフリー教育はすでに九十年代から急進的な家庭科などの教師の間で試験的に導入されていたが、二十一世紀にはいるとにわかに全国的な規模で推進されるようになった。とくに来年度からの本格的始動に備えて、教科書をジェンダーフリー化し、研修会やセミナーによって教師をジェンダーフリー化しようという作戦が本年度のうちに進行しつつある。

 学校での「ジェンダーに敏感な教育」とは、たとえば教科書のさし絵を集めて、その中に描かれている男女の姿が異なる所をきめ細かにチェックさせるという授業をすべきだと言うのである。

 たとえば、そういう視点で槍玉に挙げられるのが「男の子はブルー系、女の子はピンク系の服の色になっているとか、男の子はズボンに女の子はスカートに髪かざりをつけている」絵。このように「男女を固定的に見たさし絵が描かれていると、子供たちは固定的な見方を知らず知らずのうちに植え付けられてしまう」と主張される。

 あるいは、「主人公が家に帰っていく場面では、お母さんやおばあさんで家で待っているのが多かった。またジャングルジムの一番上にいるのは男の子だというように、男の子は能動的に描かれていた。これも男女の固定的な見方を生む」と抗議される。

 このように、じつにきめ細かに、細大漏らさず男女を区別する場面を抜き出して、それをすべてなくすことが求められる。ちょうど中国の文化大革命のとき、紅衛兵が「反動分子」をすみずみから摘発し、つるし上げたのと同じ態度である。

 こうした教育のための教科書作りについては、すでに高橋氏が詳しく明らかにしている(後述)。それと並行して、ジェンダーフリー教育のための教師作りも着々と進行している。たとえば、来る七月三十日から八月一日の二泊三日で、国立女性教育会館主宰の「教師のための男女平等教育セミナー」が開かれる。これは「学校教育における人権尊重、男女平等に関する指導の充実及びジェンダー(社会的・文化的に作られた性別)に敏感な視点の定着と深化に資する実践的な研修を通し、男女共同参画社会の形成に資する」ことを目的としている。

 参加対象者は「各都道府県・指定都市教育委員会・教育センターの指導主事・研修主事等」と「国・公・私立の幼・小・中・高等学校の教員、校長、園長の計一二〇名。参加希望者は各教育委員会を経由して申し込む。

 内容は、たとえばワークショップのテーマを見ると「映像とジェンダー」「言葉とジェンダー」「スポーツとジェンダー」「音楽とジェンダー」というように、これらのジャンルの中にどれくらいジェンダーによる区別がなされているかに気づくための訓練をしようとするのであろう。その「気づき」を現場に持って帰って子供たちにジェンダーフリー教育を施すことができる教師に「改造」しようというのである。

 また分科会では、たとえば「管理職・指導主事コース」の「学校経営をジェンダーに敏感な視点で考える」では、「ジェンダーに敏感な視点で学校経営を見直す必要性や男女平等教育をどう展開するかのための研修のあり方等を討議する。」また「アドバンス・コース」「男女平等教育実践中の参加者による研究協議」では「男女平等教育をどう展開するか、そのために事例を各自で持ちより、それらをもとに、学習計画や教材の検討や作成を行う。」

 このように、今やフェミニズム勢力は上からの権力を使ってジェンダーフリー教育を組織化しようとしており、子供たちを洗脳することを狙っているのである。

 

四 「家族」は天王山

 

 こうして「子供」「家族」「家庭」をめぐる攻防は、今や似非フェミニストと正しいフェミニストの戦いの天王山である。似非フェミニストは家族の健全な枠を崩すことにやっきとなっている。なぜなら健全な家族を守るか掘り崩すかが、健全な社会を守るか崩すかの天下分け目の戦いになるからである。「家族」を子供たちにどう教えるかは、いまや戦略上もっとも重要な争点となっている。

 左翼的な教科書会社は一斉に家庭科教科書の中にフェミニズム的な偏向した内容を盛り込んでいる。その詳しい分析をすでに高橋史朗氏が行っている(「ファロスを矯めて国立たず」『諸君!』二〇〇二年六月号)ので、詳細は譲るが、たとえば専業主婦と良妻賢母のマイナス面ばかりをことさらに強調して否定的に描く(性別役割分担を否定して母親の労働者化を進める)、「家族内民主主義」を称揚して親子のあいだの上下関係を否定する(それでは躾ができない、したがって社会道徳は崩れる)、父性と母性を否定し、乳幼児にとっての母親の重要性を否定し(母性神話説、三歳児神話説)、性の自立・自己決定権を勧めて性道徳を説かない(性的頽廃を勧めているようなもの)等々、すべてにわたって男女の区別を否定し、家族と家庭をバラバラの個人へと解体することを狙っているとしか思えない内容ばかりである。

 もう一つ家族を崩すという隠された動機を持つのが、「多様な家族」論である。

 父母子の三要素がそろった家族を私は「基本家族」と呼んでいるが、そのうちのいずれかが欠けた形態も、基本家族とまったく同等の権利を認め、同等の扱いをせよと要求している。シングルマザーと非嫡出児、同性愛のカップル、同棲のカップル、これらの「多様な」形態の家族すべてを平等に「家族」として認めよと言うのである。

 しかし不倫の結果生まれた片親家族や性的放縦のために生まれたヤンママの母子家庭にまで手厚い保護を与えたのでは、道徳的頽廃を奨励しているようなものである。すでに現在でも、離婚した母子家庭の母親には、公営住宅に入る優先権、育児のための少なくない補助金、保育所への優先的入所権等々が与えられ、離婚を勧めるフェミニストたちは「こんなに得なことがあるから、どんどん離婚しても困ることはない」と言っているくらいである。もともとは父親が不慮の死を遂げた子供を健全に育てるために、母子に対する手厚い補助を出していたのが、今はお手軽に離婚することを奨励するかのような役割を果たしている。

 「多様な家族」をすべて「平等に」認めたら、人間は好き勝手に何をしても自由ということになり、家族の中で協調したり、我慢したり、義務や責任を重んずることは必要なくなってしまう。それではただ家族を崩すことを目的としているとしか考えられないのである。

 またフランスのパクス法のように、国家の戸籍制度を故意に無視して届けをしない夫婦にも正規の夫婦と同じ権利を認めたのでは、やがて婚姻・戸籍制度の解体への道を歩むことになろう。

 こうした反社会的・無政府主義的なイデオロギーむき出しの思想が、こともあろうに教科書の中に頻繁に登場するのである。頭脳が柔らかく、染まりやすい子供に対して、偏向した思想を注入する洗脳教育が、「男女平等」という錦の御旗のもとに強行されている。子供たちが洗脳されてしまったなら、家族の解体は最終的に成功してしまうだろう。まだ健全な感覚が残っている現在こそ、健全な家族を守る最後のチャンスである。

 

五 権力者となったフェミニズム

 

 ジェンダーフリー教育はいまや下からの革命としてではなく、上からのクーデターとして実行されている。

 行政府を占拠し、審議会を独占し、立法化によって上からフェミニズムを推進しようという戦略は、着々と成功しつつある。

 介護保健法によって外堀が埋められた。夫婦別姓法案が成立したら内堀が埋められるところだった。しかし夫婦別姓に対しては意外なほど反対が多かった。各種の世論調査でも、九十年代を通して一貫して反対が半数を超えたままであった。

 

本丸を占拠された状態

 この事態にじれたフェミニストたちは、一挙に本丸を落とす作戦に出た。男女共同参画社会基本法がそれである。この法律は国民の意識を変えるために都道府県から市町村に至るまでの各自治体において、男女共同参画のための具体的施策を実行することを義務づけている。

 この法律以前と以後では事態は決定的に変わっている。フェミニストが権力の側に立ち、保守派が反体制の側に立たされているのである。ジェンダーフリーの政策や教育は法律にしたがっているという正当性を主張できるのに対して、反対側は法律に違反しているというレッテルを貼られる可能性がある。

 これは本丸を占拠された状態というだけでなく、錦の御旗を奪われた状態と言わざるをえない。

 この弊害がさっそく現われたのが、混合名簿に関する長野県と静岡県の場合である。この両県では男女混合名簿が百パーセントの実施率だとされる。すなわち県の教育委員会が混合名簿にすると決め、それを各学校に強制している。いわばトップダウン方式で、思想に関わる制度を強制しているのである(左翼は権力を取ると強権的となる好例である)。しかし、それは教師や生徒の内面的な思想の自由を侵す重大な人権侵害であり、思想統制である。

 じつは実施率百パーセントというのは、見せかけにすぎない。つまり宣伝に使われているにすぎないのである。それは私に寄せられた、次のような長野県の現場の先生からの投書を見れば、簡単に推測することができる。

 

 「私の見るところ(アンケートをとったわけではありませんが)、長野県でも男女混合名簿に賛成している先生は、十%いるかいないかにすぎません。三十%くらいは内心反対なのです。残りの六十%は、主張を持たないか、日和見を決め込んでいるのです。長野県における男女混合名簿が百%なのは、ひとえに県の教育委員会が強力にそれを推進(いや強制)しているからです。主幹主事(旧管理主事)が、学校に指導要録をみにきては、男女混合名簿を強要しているからです。」

 「教育委員会が強力に推進し、校長が職員に『そうしろ』と言い、教育事務所の同和人権関係の指導主事がさらに、これに加勢しているので、逆らえない状況にあるだけです。」

 「『男女混合名簿は非合理的で、面倒で何にもいいことない』と陰で言っている先生なら、過半数を超えています。混合名簿の賛成者なんか、社民党の支持者に少しプラスアルファしたくらいの圧倒的少数派なのです。」

 「今、先生たちの間で流行っていることをお知らせします。お役所(教育委員会)用には、しょうがないので、男女混合名簿を使うが、男女別名簿も作り、状況判断で使い分けることです。私も両方の名簿を作って用意しています。しかし、今年度は、今のところ男女別名簿しか使っていません。その方があらゆる面で便利だからです。」

 

 この手紙から分かることは、百%というのが実際の実施率ではなく、県教育委員会が強要している表向きの数字だということである。現場では二重帳簿のようにして、両方の名簿を使い分けている先生たちも多いらしい。

 以上のように、行政のトップを占拠し、上から強制するというのは、クーデターまがいの戦略である。こうしたやり方で、国民の意識を変えるという口実のもとに、文化を破壊しているのがフェミニストたちのやり方である。

  

保守派の戦略の間違い

 このように「本丸を占拠された状態」だといい、「錦の御旗を奪われた状態」だと言うと、それは保守派の油断であり、認識不足だと言う人が多い。しかし、その見方はまだまだ甘いと私には思われる。保守派は決してたんに油断していたのではない。逆に保守派はフェミニズムを利用しようとしたのだが、その戦略が間違っていたのだ。

 保守派はフェミニズムに媚びを売って、女性票の獲得を期待した。フェミニズムがいかに恐ろしいものかを知らずに。男女共同参画社会基本法の答申を小渕元首相はにこにこ顔でおしいただいた。国会では全会一致で通してしまった。

 また経済界は女性労働力の利用という戦略を立て、これまたフェミニズムを利用できると考えた。保育所を増やし延長保育をさせ、働く女性に有利にすれば労働力不足はなくなり、少子化も軽減すると考えた。これらはすべて間違った認識に立っていた。

 「フェミニズムとは男女平等を勧めるための運動であり、無害であり、それを利用すれば少子化による労働力不足を補うことができる」と考えていたとしたら、それは甘い認識というものである。フェミニズムは単なる男女平等運動ではなく、国際的な革命勢力による戦略の一環として位置づけられ、周到に準備されてきた一大作戦なのである。

 フェミニストの言っていることは、すべて科学的根拠もなければ、結果も伴っていない。たとえば、保育所を増やせば出生率は上がると言ってきたが、保育所の数と出生率とが比例するという根拠もなければ、そうした結果も出ていない。むしろ乳幼児の母親を働かせる戦略は家庭の崩壊と子供たちの情緒不安定、犯罪化に拍車をかける結果となっている。フェミニズム先進国のスウェーデンの惨状(家庭崩壊と犯罪率の高さ)は目を覆うばかりである。こうした事実を前にしても、保守派はまだフェミニズムに甘い顔をしつづけるのであろうか。

 この辺で保守派は健全な保守であることを取り戻すべきである。フェミニズムを利用できるなどという甘い考えは捨てなければいけない。そしてフェミニズムから錦の御旗を取り戻さなければならない。

 そのためにはフェミニズム諸立法を見直し、適切な改正を施す必要がある。まずなによりも男女共同参画社会基本法を改正し、偏向した思想統制と権力的支配をなくさなければならない。また介護保健法を改正し、家族介護に手厚い援助ができるようにする必要がある。さらには家庭で育児をしている母親に対しても、充分な支援をしなければならない。しかるに政府税制調査会までが、専業主婦を敵視するフェミニストたちの主張を受け入れ、配偶者特別控除を廃止する方針を打ち出してしまった。

 ただでさえ家族が崩壊の危機に瀕しているのに、国がその崩壊に手を貸すような法律を作り制度を改悪するとは、信じがたい愚行と言わなければならない。

 家族を守るか崩すかは、将来の日本の行方を決める決定的な戦略的要点である。その家族が今や国家政策として破壊される危機に瀕している。保守派よ目覚めよ。そして総反撃に移れ。