フェミニズム

 

29 (3) 「双子の症例」と「ジェンダー論」の関係

   ── 『ブレンダと呼ばれた少年』の打撃をフェ理屈でごまかす人 ( macska への反論 2 )

           (平成18年2月5日初出)

はじめに

 macska とのこれまでの論争は読者を裨益するところが少なかったのではないかと反省した。その主たる原因は macska が単に一つの言葉の意味に固執するだけで、自分が表題に掲げた主題さえ論じないという、まさに木を見て森を見ずの議論を行ったために、内容を深めることができなかったことにある(その論争の総括は改めて論ずる)。

 したがって、この論文においては macska に対する批判よりも、主題について解明することを主たる目的にする。その方が、せっかく読んでくださる読者の関心に応えることになろう。

 本論文の主題は、フェミニズムの本丸とも言うべき「ジェンダー」論である。すなわち「ジェンダー」論の嚆矢(こうし)とされるマネー理論の成立をたどりながら、その中で「双子の症例」が果たした決定的な役割を解明する。つまりは「双子の症例」が失敗すればマネーの「ジェンダー」論も崩壊するゆえんを明らかにする。

 次にマネーの「ジェンダー」論と現在のフェミニストの「ジェンダー」論が基本的に同じであること、したがって「双子の症例」の失敗がフェミニズムの中核理論である「ジェンダー」論を根底から崩壊させるものであることを明らかにする。

 その中で、とくに上野千鶴子氏がマネーの「ジェンダー」論にふれながら自らの「ジェンダー」論を展開している箇所に重大なごまかしがあることを明らかにする。

 

「双子の症例」と「ジェンダー」は無関係か?

 『ブレンダと呼ばれた少年』の内容はフェミニズムにとって決定的な痛手であった。これによってフェミニズムが前提としてきた「ジェンダー」論が大きな打撃を受けたからである。

 しかしフェミニストたちは、「ジェンダー」論と「双子の症例」とを切り離し、両者の関係を否定することで「ジェンダー」概念を守ろうとしている。

 例えば前回も取り上げた macska は、小谷野敦氏との論争において、ジェンダー論と「双子の症例」とは関係ないと断言している。

 わたしが言わんとすることは単純で、「セックスとジェンダーが異なるという議論は、ジョン・マネーが、男児を女児として育てるのに成功したという人体実験に基づいていた」という小谷野敦さんの記述は事実として間違いであり、マネーの失敗をフェミニストやジェンダー論に結びつけて「従来通りのジェンダー理解は通用しない」と決めつけるのは浅ましいですよ、というだけのもの。だって、マネーが「ジェンダー」という言葉を「セックス」と区別したのは「双子の症例」とは関係ないし、さらに言うと「生育環境によって変えられるかどうか」といった議論とも全然関係ないコンテクストだもの。

 マネーが「セックス」から区別されるものとして「ジェンダー」という言葉を当てはめたきっかけはというと、性同一性障害の患者の話を聞くうちに、生殖学上の性別とは別に「社会的な性」とでも呼ぶべきものがあり、性同一性障害の人たちは前者と後者がミスマッチしているのではないか、と考えたわけです。ここで言う「社会的な性=ジェンダー」というのは、今の言葉でいう「性自認=ジェンダー・アイデンティティ」のことであって、上野さんらフェミニストが問題とする性役割や「社会的に構築された男性性・女性性」といったモノとは全然意味が違うわけ。マネーがやったことというのは、要するに「単なる変態」と思われがちだった性同一性障害の人たちに心理学上の「お墨付き」を与え、そこにキャッチーな用語を当てはめたことだけなのね。

 相変わらず偉そうな断定的口調だが、しかしこの中に根本的な間違いが二点含まれている。

 第一に、まず根本となる間違いとして、マネーのジェンダー論を初期の成立時にだけ限って見ている点を指摘しなければならない。つまり、「きっかけ」の問題にすりかえているのである。(きっかけとしても間違えている。きっかけは性同一性障害の人たちではなく、半陰陽者であった。) (半陰陽とは、第一次性徴における性別の異常であり、身体的に男性と女性の両方の特徴を持つもの。遺伝子、染色体、性腺、内性器、外性器などにおいて男女両方の特徴が混在している。日本では昔から「ふたなり」と呼ばれてきた。)

 初期の段階において、マネーの「セックス・ジェンダー区別論」はまだ完成されていなかった。それは半陰陽者についての説明にはなっていたが、正常者にまで一般化されておらず、いわば仮説の段階だったのである。

 その区別論が正常者も含めたものとなり、しかも実証済みの理論となって初めてマネーのジェンダー理論は完成する。正常者も含めた実証済みの理論となるためには、どうしても「双子の症例」が必要だったのである。

 マネーは半陰陽の事例から導き出された結論を一般化して、「性自認は誕生時には未分化であり、生育の過程で男女の差が生じる」という理論を形成していったのである。その一般化の過程で「双子の症例」が決定的な役割を果たしたという「コンテクスト」なのだ。

 単なる「きっかけ」ではなく、マネーのジェンダー論の完成という大きな流れで見るかぎり、「セックスとジェンダーが異なるという議論は、「双子の症例」に基づいていた」という小谷野氏の説明は間違ってはいないのである。マネーのジェンダー論は「双子の症例」によって正常者にまで拡大され、かつ完全に実証されたものとして完成するからである。

 次に、

さらに言うと(セックス・ジェンダー区別論は)「生育環境によって変えられるかどうか」といった議論とも全然関係ないコンテクストだ

というのは大間違いである。

 「セックス・ジェンダー区別論」と「ジェンダーは生育環境によって変えられる」という理論とは、マネーにおいてセットになっていて、決して切り離すことはできない。ジェンダーが「生育環境によって変えられる」からこそ、セックスと区別されるのである。このセットの関係は初期だけでなく、一生を通じて維持されている。「全然関係ない」というのは大間違いである。

 なお、上野氏らフェミニストが問題としているのはマネーの性自認とは違う性役割の問題だと書いているのも、明白に間違いである。後に論ずるように、上野氏は明らかに性自認を問題にしている。

 以上の間違いは、マネー理論の変遷をたどることによって、明らかにされるであろう。

 

マネーのジェンダー論と「双子の症例」との関係

 以下、マネー理論の変遷を概観することによって、「双子の症例」の決定的な意味を明らかにしておこう。

 1921年ニュージーランド生まれのジョン・マネーは、アメリカに渡ってハーバード大学で心理学の博士号を取得し、その後ジョンズ・ホプキンス大学に移って、半陰陽者を対象に調査研究を行った。

 マネーは半陰陽者の中で、同様の身体的特徴を持った二人のうち、育て方によ って一人は男性として、いま一人は女性として正常に発達したと見られたことなどから、「半陰陽の数々の例は、心理学的には、誕生時には性は未分化のままで、成長過程でのさまざまな体験を通じて男であるか女であるかの差異が生じてくる」という独自の理論を提唱し始めた。

 いま一つの証拠としてマネーが提出したのが「変性者」である。例えば、出生時には解剖学的にもホルモンの点でも正常な男性であったが、性自認の点では女性であるという例である。この性自認の方向転換はマネーによれば、生後間もない時期に主に母親を通して与えられることが多い。

 これらの研究からマネーは、1955年に発表した論文の中で、「身体的性別」は遺伝的に決まるが「性自認」は両親と社会によって形成されると主張し、前者をセックス、後者をジェンダーと呼んだ。社会構築論としてのジェンダー論の誕生である。

 ただし、マネーは一挙に「性自認を出生前に決める要素はゼロ」「生後に社会の影響で決まる」という一般化された形でのジェンダー論に行きついたわけではない。

 一つの問題点は、マネーの性自認後天説が、正常者に関してはまだあくまでも仮説の段階であったという点にある。マネーがこの仮説を半陰陽者から正常者にまで拡大するのは、彼の理論からすれば必然的な方向であった。それはまた時代の要請でもあった。当時の学界の傾向は、性差の生物学的な根拠よりも環境(「氏」より「育ち」)を重んずる見方に傾いていたからである。

 いま一つ、さらに大きな問題点は、「性自認は胎児期におけるホルモンの影響によって生まれつき決まっている」と主張する有力な研究が現れたことである。

 すなわち1960年代に、マネーのジェンダー論を無効にするほどの有力な研究が現れた。ミルトン・ダイアモンド氏らのチームがモルモットを使った実験によって、出生前の胎児期においてホルモンが脳にいかなる作用を与えるかという研究を行った。そして男性ホルモンであるテストステロンの胎児期における投与が、生まれてからのモルモットの性行動に影響を与えることを突き止めた。このことから、ダイアモンド氏は人間の性自認も出生前ホルモンの影響を受けるという説を発表した。すなわち、性自認は胎児のときから脳に組み込まれていると主張したのである。

 彼によれば、半陰陽者は性器と同じように神経系統や脳の組織が子宮内であいまいに形成されたにすぎず、もともとどちらの性にも向かいうる能力があるわけで、遺伝子上正常な子供にはそうした能力はないと指摘した。

 このダイアモンド氏の批判を受けて、マネーは性ホルモンが脳に作用する場合があるという研究を集めた。オタマジャクシやメダカの場合、魚やラットの場合等である。それらの研究は確かに胎児期におけるホルモンが性差を分ける重要な働きをしていることを証明していた。

 マネーは男性ホルモンの作用を人間で確かめる調査も行った。胎児期に母親が黄体ホルモンなどの男性ホルモンを投与された少女たちの例を集め、成人してからの性行動が男性化するという事実を確認したのである。こうしてマネーは性自認が出生前のホルモンによって影響されるというダイアモンド氏説を一部容認するに至るのである。

 ただし、「出生前の性ホルモン・ミックスは、脳内に新しい神経回路を作りだしてはいない」と主張し、また男女の行動は「多くの要因」によって決まるものであり、「出生前の性ホルモンの状況だけで左右されるものではない」「出発点での本来わずかな違いを極端に拡大してしまった文化という重大な加勢」を考慮しなければならないと考えた。こうしたマネーの見方は、後にフェミニストたちから中途半端だと批判を受けることになる。

 マネーは出生前のホルモン作用を認めながらも社会構築説を捨てきれなかった。そのため、ダイアモンド氏から「完全に男性である正常な子供が女性として育てられ、成功したという実例は一つもない」「そのような実例を見つけることは困難である」と指摘されるに及び、マネーのジェンダー論は窮地に立つこととなった。

 ところが、マネーにとって幸か不幸か、その直後に、「そのような実例」が見つかってしまった(と思われた)のである。彼は『男と女、男児と女児』の中で「正常な赤ん坊に対して実験を行う予想外の機会が訪れた」と書いている。一旦はダイアモンド氏の生得説に有利に傾きかけた情勢を、再びマネーの側に引き戻したものこそ1972年に発表された「双子の症例」であった。包皮切除手術に失敗してペニスを損傷した乳児に対して、精巣を切除して膣を形成する手術を施し、女児として育てたところ、この女児は女性としての性自認を持つことに成功したという趣旨である。

 この症例によって、マネーの「性自認後天説」は完全な証拠を得たとされた。つまり、一旦はホルモン説=生得説に負けそうになったマネーの社会構築説を一挙に勝利させたものこそ、「双子の症例」だったのである。

 たしかにマネーの場合には、育てられ方によって性自認を変えられるのにも臨界点があり、その臨界点は「少なくとも生後一年半」にあると認識されていた。それが彼の言う「性自認の門」gender identity gateという考え方であった。その門が閉じられると、その後は性自認は変えられないと最初は主張されていた。

 しかし、

 正常な幼児に対しては出生時に性自認の選択の自由が与えられていること、そして少なくとも生後一年半までは社会的影響力が決定的に関与する(『性の署名』p.111)

という表現からも分かるとおり、「生後一年半」以後も「社会的影響力」の作用が及ぶことを示唆している。彼の理論は半陰陽者から正常者 へ、「何ケ月までなら変えられる」から「性自認は変えられる」へと、次第に一般化していく傾向をはらんでいたのである。

 

マネー「ジェンダー」論の一般化と波及

 「双子の症例」を分水嶺にして、「何ケ月までなら変えられる」から一般的に「性自認は変えられる」へという、一般化への流れが怒濤のように始まった。「双子の症例」を「ダーウィンの進化論にも匹敵するもの」と持ち上げる新聞もあった。『タイム』誌は、「男性的および女性的行動における従来のパターンは変更可能であるという、女性解放論者たちの主要な論点を強く支持するものである」と書いた。

 「双子の症例」は社会科学、泌尿器学、そして内分泌学にいたるまで、さまざまな分野のテキストに正式に記された。例えば、77年に出版されたアリス・G・サージェントの女性学のテキスト『性の役割を越えて』には「たとえ行動の資質において生物学を根拠とした性の違いが存在するとしても、子供が一方の性として判定され、そのように育てられる場合、社会的要因は、それらの生物学上の根拠を超越し、やがてはかき消してしまう。」と書かれていた。

 また77年に出版されたイアン・ロバートソン『社会学』には、マネーの研究は「子供たちが反対の性として容易に育てられることを示しており」、人間の生得的な性の違いは「確固としたものではなく、文化的な学習によってくつがえすことができる」と書かれていた。さらには79年度版『性医学教本』には、「氏」を圧倒する「育ち」の力の確たる証拠として「双子の症例」が引き合いに出されている。

 このようにマネー自身は多少曖昧な言い方でためらいがちに一般化をしたが、後の論者たちはためらいを捨てて断言し始めた。その結果マネーは「自分が男であるか女であるかの認識(性自認)は、生まれつきでなく、育てられ方で決まる」ことを実証した性科学者として有名になっていったのである。この一般化した説は当時の各分野の学問に多大な影響を与え、またその理論をフェミニストが喜んでジェンダー論の根拠にしたのである。

 ところが、1999年にアメリカで " AS NATURE MADE HIM " (『ブレンダと呼ばれた少年』)が発表されると形勢は逆転した。マネー理論の証拠が瓦解したからである。「双子の症例」の失敗の打撃をやわらげるために、フェミニストは多くの煩瑣な弁護論を展開しているが、そこまで入り込むと本論も膨大なものになりすぎるので、日本に限って、見ていくことにする。

 

「双子の症例」の失敗をごまかす日本のフェミニストたち

  まず「双子の症例」を肯定的に紹介した小倉千加子氏の場合を見ておこう。小倉氏は『セックス神話解体新書』において、「双子の症例」を詳しく紹介して、ブレンダが完全に女の子になりきったものとして評価していた。「彼女は女の子だった。……五歳のときのクリママスにもらいたいプレゼントのリストの筆頭は人形と人形用の乳母車であり、男の子とは正反対にきれい好きで好みがやかましく、長い髪を喜んでいろいろなヘアスタイルを試したり、台所仕事をしばしば助けようとしたという」(p.232-233)。

 ところが『ブレンダと呼ばれた少年』が発表された後においてもなお、『セクシュアリティの心理学』において「性別や性的指向が脳によって先天的に決められているという見解を、私は支持しません。『双子の症例』を、マネーの理論的な失敗とも考えません」(p.53)と理由もなく断定している。実証が失敗すれば、その実証に頼っている理論も無傷ではありえない。厚顔無恥な開き直りと言うべきだろう。ただし小倉氏の場合は単純で分かりやすい。

 上野千鶴子氏の場合はもっと悪質である。マネーを自分のジェンダー論の正当化のために利用しながら、巧妙に「双子の症例」をすりぬけているからである。すなわち上野氏は、1995年に共著『ジェンダーの社会学』の中で

 マネーとタッカーの業績は、セックスとジェンダーのずれを指摘したにとどまらない。もっと重要なことに、かれらの仕事は、セックスがジェンダーを決定するという生物学的還元説を否定した。(中略)マネーとタッカーは、生物学的性差の基盤のうえに、心理学的性差、社会学的性差、文化的性差が積み上げられるという考え方を否定し、人間にとって性別とはセックスでなくジェンダーであることを、明瞭に示した。(p.6)

と書き、それを2002年に『差異の政治学』に収録したときに、現代の日本の例を新たに加えて、

 日本では九九年に埼玉大で性転換手術の実施が承認され、希望すれば「自然」を「文化」に合わせることが可能になった。TS臨床が示すのは、身体的性別とまったく独立に性自認が成立すること、そしてそれが臨界期の後も変わりうることであった。(p.11-12)

と一般化し拡大した命題を付け加えたのである。つまりマネーが「双子の症例」によって一般化したことを、「TS臨床」を持ちだして(「双子の症例」ぬきで)「身体的性別とまったく独立に性自認が成立する」「臨界期の後も変わりうる」と、あっさりと、あっけらかんと一般化したのである。

 ここには、重大なごまかしが隠されている。じつは、こんな一般化は、「性転換手術」や「TS臨床」だけからは、絶対にできないのである。

 

「性転換手術」や「TS臨床」だけでは証明できない ──上野千鶴子氏の詐術

 上野氏は『差異の政治学』において「双子の症例」という言葉を使っていない。それでいて、「双子の症例」の成功を前提にしなければ言えない一般化した命題を述べているのである。上野氏のこの部分には重大なごまかしがある。すなわち「双子の症例」を使うことのできない上野氏は、代わりに「TS臨床」を持ってきたのである。しかし「TS臨床」も「性転換手術」を使うのであり、決して別の論拠を示したことにはならない。このごまかしは重要なので、詳しく説明しておこう。

 もう一度、上野氏の文章を確認する。「TS臨床が示すのは、身体的性別とまったく独立に性自認が成立すること、そしてそれが臨界期の後も変わりうることであった。」

 こうした一般化した結論は、「性転換手術」だけからは決して言えないのである。もちろんTS臨床からも言えない。TS(性転換症)とは、性同一性障害のうち、特に身体的性別に対する違和感・嫌悪感が強く「性転換手術」(現在では「性別適合手術」と呼ばれる)までを望む症例を指す。したがって「性転換手術」と言おうが「TS臨床」と言おうが、事の本質は変わらない。上野氏は「TS臨床」という言葉を持ち出して、何か新しい証拠でもあるかのように見せかけたにすぎない。

 事の本質はこうである。上野氏が証明したい命題は「ジェンダーはセックスから独立していること」「性自認は身体的性別から独立に成立すること」である。フェミニストから見ると、社会的・文化的に形成される性自認が主人公であり、身体的性別に拘束されるのではなく、逆に身体的性別から完全に独立して、社会的・文化的影響によって成立する。

 「ジェンダーの独立」という言葉は、ジェンダーが「身体的性別とは無関係、別物」「完全に生得性がない、完全に後天的なもの」「セックスに対して独立している」という意味である。

 それに対して、「生得説」の側が主張していることは、「文化的性差は生得的性差を基盤にして生まれ、発達していく」ということ、「正常者の場合には性自認と身体的性別は一致しており、切り離しがたく結びついている」ということである。「生得説」は身体的性別も性自認も生得的な基盤を持ち、性自認の場合も、生得的に存在している性自認の方向性を環境・文化・育て方が発達させ補強していくと捉えているのである。

 (この主題こそがジェンダー論の中心主題であり、前の論争で macska が逃げてしまった主題である)。

 さて、フェミニストの命題を証明するためには、性自認が身体的性別に拘束されず独立している、あるいは「独立に変更できる」という証拠が必要になる。

 そこでフェミニストが目を付けたのが「半陰陽」「性同一性障害」の人たちと、その人たちを対象にした「性転換手術」である。フェミニストはそれらが「ジェンダーの独立」の証拠だと主張する。しかしそれらはなんら証拠にはなっていないのである。

 まず「半陰陽者」「性同一性障害者」が存在するというだけでは、すなわち身体的性別と性自認が一致していないというだけでは、「性自認の独立性」を証明したことにはならない。なぜなら、「半陰陽者」と「性同一性障害者」が生まれる原因が明確に解明されていない以上、身体的性別と性自認の間に関係が「ある」とも「ない」とも言うことはできないからである。

 次に、「性転換手術」も「性自認の独立性」を証明してはいない。「性転換手術」は性自認を変えるわけではない。逆に性自認を基準にして、性自認に合致するように身体的特徴を変えるものである。(マネーとタッカーの場合も最初は性自認を変えようとしたが、成人の場合には性自認を変えることが難しいと分かったので、性転換手術に頼るようになった。)しかし、そうした手術からは、性自認が身体的性別から「独立」しているかどうかを確かめようがないのである。

 なぜなら、性自認を変えようとしてみた結果、性自認が身体的性別と無関係に変えられたというときに初めて、それが独立していると言えるからである。しかし「性転換手術」では性自認には手をつけないのだから、「身体的性別とまったく独立に性自認が成立すること」も「しないこと」も証明できていないのである。

 では、ジェンダーがセックスから「独立」していることを証明するためには何が必要なのか。そのことを証明するためには、正常者の場合に「身体的性別には関わりなく性自認を変えることができた」という症例が必要になるのである。

 

「双子の症例」の決定的な意味

 ここに「双子の症例」の特別に重要な意味がひそんでいる。「双子の症例」は一般の「性転換手術」とは根本的に異なる特徴を持っていた。すなわち「性転換手術」は性自認を前提にして、それに合わせて身体的性別を変えるものである。しかし「双子の症例」はある意味では逆に、新しい身体的性別を手術によって作り出したうえで、それに合わせて性自認をも変えようという試みであった。すなわち、男児の身体を女児の身体に変える手術をし、その新しい女児の身体に合わせるように性自認をも女児のそれに変えよう(正確に言うと、マネーのつもりでは、まだ未分化の性自認を女児としての性自認へと「育てよう」)として「女児として育てさせた」のである。

 もしその試みが成功していたなら、たしかに「生得的な身体的性別に左右されずに、まったく独立に新しい性自認が成立すること」を証明したことになった。性自認を変えないでそれを基にする場合と、性自認までも変えよう(外から自由に誘導しよう)とした試みとの違いである。性自認を変えることができた(誘導できた)という場合にのみ、「性自認が身体的性別から独立」だと言えるのである。

 ただし、それだけではない。「双子の症例」にはもう一つの特別な意味がある。それはこの双子が一卵性双生児であることと関係がある。これがもし単生児であった場合には、「性自認が変えられた」という場合にも、本当に「変えた」のかという疑問が残る。なぜなら、その子は初めから性同一性障害者だったかもしれないからである。つまり男児の性自認を変えたと思えた場合にも、その男児ははじめから女性としての性自認を持っていたかもしれない。単生児の場合では、「変えた」という証拠にならないのである。

 ところが一卵性双生児の場合には、事情が決定的に違ってくる。「変えた」というほとんど絶対的な証拠があるからである。一卵性双生児の場合には、兄弟の両方が身体的性別も性自認も一致して生まれてくるはずである。なぜなら、兄弟が同じ胎内環境の中で過ごし、まったく同じ遺伝子を持ち、同じように男性ホルモンのアンドロゲンの作用を受けるからである。

 したがって、身体的性別が男子として生まれた双子の一方が性同一性障害でなかった場合には、他方も性同一性障害でないと考えてまず間違いないからである。「双子の症例」の場合には一卵性双生児のブライアンの方は身体的性別も性自認も正常な男児として成長した(性同一性障害者ではなかった)。だとすると、性同一性障害者ではない「ブレンダ」の方も、普通に男児として育てれば、身体的性別も性自認も男児としての特徴を持ったはずである。この仮定のもとでは、もし「ブレンダ」が本当に女性としての性自認を持つことになったのならば、「性自認は身体的性別とは独立に変えられる」という命題のほぼ完全な証拠になりえたはずである。ブライアンの存在は、「ブレンダ」が初めから性同一性障害者だったという可能性をほぼ完全に排除しているからである。

 つまり、「性自認は育て方によって変えられる」ことを証明するためには「一卵性双生児」でなければならないのである。ここに「双子の症例」の決定的な意味があるのである。単なる「性転換手術」では不可能、「単生児」でも「二卵性双生児」でさえもまだ不十分、ただ一つ「一卵性双生児」の片方の性自認が変えられたということが、決定的なのである。したがって、この症例が成功していたならば、フェミニストの主張する「性自認の独立」はほぼ完璧に証明されたのである。

 しかし、よく知られているように、この「双子の症例」は失敗していた。したがって、フェミニストの「性自認の独立」を証明する実証はまだ見つかってはいないのである。

 以上のことが理解されていれば、ときどき言われる「証拠となる他の症例」による無用の混乱も避けることができる。「他の症例」を成功例として挙げる人がいるが、それらの症例は正常者でなかったり、正常者でも単生児の場合は性同一性障害者である可能性を排除できないため、完璧な証拠とは言えないからである。

 

上野千鶴子氏のごまかし ──なぜ「双子の症例」に言及しなかったのか

 以上、詳しく説明したように、「性自認の独立性」(ジェンダーの独立性)は「一卵性双生児」である「双子の症例」が成功した場合にしか、証明できないのである。しかし上野氏は、「双子の症例」が成功した場合にしか言えないことを、単に「半陰陽や性同一性障害者」の「性転換手術」だけから結論しているのである。

 例えば、上野氏は、マネーとタッカーは「半陰陽や性転換希望者などの患者を相手にして、ジェンダーがセックスから独立していることをつきとめた」(『差異の政治学』p.7)と書いている。これは大嘘である。この命題は、「半陰陽や性同一性障害者」においては性自認が動かし難いことを、マネーとタッカーが確かめたことを指して言っているものと思われる。しかし、性自認が動かし難いということを言っただけでは、性自認が「独立」しているとは言えないことは、すでに説明したとおりである。そのことは「双子の症例」によってしか証明できないことだからである。「双子の症例」をぬきにしたままでは、「性自認の独立」を一般化して正常者を含めた全体に当てはめることはできないのである。

 「マネーとタッカーの業績」について詳しく紹介して自分の理論の裏付けにしている上野氏ならば、その業績の中でもとくに最良の証明となるはずの「双子の症例」を喜んで援用するはずである。なのにそれにまったく触れていないのは不可解であるし、あまりにも不自然である。その理由は、上野氏が「双子の症例」の失敗について、いち早く何らかの情報を得ていたからではないであろうか。

 『差異の政治学』の初出は1995年である。その前に「双子の症例」は失敗しているという情報は流されていた。すなわち、

 ダイアモンド氏は1979年版の『性研究の最前線』のなかで「双子の症例」が失敗する「可能性が非常に高い」と示唆していた。

 1980年に放映されたBBCのドキュメンタリーでは、「双子の症例」が崩壊のふちにあるかのように紹介された。

 ダイアモンド氏はこの番組の調査結果を1982年、アメリカの科学雑誌『性行動の記録』に投稿した。

 これによって一部のフェミニストの学者は、女性学のテキストの新版からひっそりと「双子の症例」を除いた。

 1991年、マネーが40年間の研究の集大成を出版するが、「双子の症例」が欠落していた。マネーは「ダイアモンド氏とBBCが倫理のかけらもない番組を製作したため、双子と家族のプライバシーが踏みにじられたため、研究を早々に終了せざるをえなくなった」と主張した。

 94年に書かれたダイアモンド氏の論文には、マネーが証明したこととは正反対の生き証人として、「ブレンダ」の人生が描かれていた。

 このように「双子の症例」の失敗の情報や噂は、1995年以前に入手可能であった。上野氏が、マネーの名を出しながら究極の証明である「双子の症例」に触れないのは、その失敗についての何らかの情報を得ていたとしか考えられないのである。

 『差異の政治学』に「双子の症例」という言葉が出てこないのには、これだけの裏がある。単に「双子の症例」という言葉が出てこなければ「無罪」、出てくれば「有罪」、などという簡単なことではないのである。

 

マネー理論とジェンダー理論の共倒れ

「双子の症例」が失敗だったことによって「ジェンダー」概念が通用しなくなったのかどうかは、「ジェンダー」概念の定義による。どういう「ジェンダー」の定義が無効になったのか、という形で論ずるのが正しい議論の仕方である。それを論じないでただ「ジェンダー」概念そのものは無効になっていないといくら力んでみても弁護になっていないし、「お前の方こそ乱暴な議論だろう」と言われるだけである。

 まず「双子の症例」によって証明され補強されたとマネー自身によって主張されているマネーのジェンダー論が、「双子の症例」によって崩壊したことを確認しておこう。

 『性の署名』において、マネーは次のように述べている。

 出生前の性の発達過程においては、おそらく社会は生まれてくる子どもの方向転換にいっさい関係していないと思われるが、その子が生まれたその瞬間から、社会は支配力を得るのである。(p.105)

 これまでの仮説では、性自認は先天的なものであると考えられていた。しかし、そうではない。……人間の性自認も社会からの刺激がなくては男性あるいは女性として分化できないのである。(p.109)

 出生前の性ホルモンも、その人が男性・女性のどちらの性として自分自身を認識するか、という決定を下しはしない。すなわち、出生前にその他にどんなことが起きたにしろ、性自認を決定するものは何もないのである。(p.109)

 一般的に認められている両性間の差異のほとんどは、元来、なんらの根拠に基づいたものでもなく、便宜的に性別に従って割り当てられた役割規定そのものであり、これらの規定自体は文化の歴史的所産なのである。(p.4)

 見られるとおり、マネーは性自認に関しては生得的な決定要素は皆無だと理解しており、完全に「社会の支配下に」置かれていると考えていた。

 このようにマネーにおいては、性自認も性役割も、生得的な性差とはなんの関係もなく、まったく(両親を中心とした)社会によって決定されると捉えられているのである。

 つまり「双子の症例」が失敗したことは、「性自認・性役割は変えられる」という理論の証拠がなくなったことを意味するのであり、マネー理論にとって決定的な打撃である。マネーのこの理論が成り立たなくなったということは、まったく同じ論理に立ちながらさらにジェンダー優位説を徹底している現在のフェミニストのジェンダー理論も同時に成り立たなくなったということなのだ。

 現在のフェミニストは皆、ジェンダーとセックスを別物として切り離した上で、ジェンダーがセックスの意味を規定するという理解をしている。例えば、日本のフェミニズムに決定的な影響を与えてきたクリスティーヌ・デルフィとジュディス・バトラーの理論はこうである。

 デルフィによれば、セックス(解剖学的性差)はそれ自体は意味を持たない。それに意味を持たせるのがジェンダーだということになる。すなわち、最初に男女への上下の意味づけ(女性の抑圧)があり、それによる性別役割分担がなされ、そのジェンダー的な視点からセックスが意識化され意味づけられると言うのである。したがって「セックスからジェンダーが生まれた」のではなく、「ジェンダーという社会慣行からセックスが決められる」と主張される。

 バトラーも基本的には同様の捉え方をしている。もっともバトラーは「セックスが自然的性差」であり「ジェンダーが文化的性差」であるという見方をも否定するので、「崩しの思想」の性質が一層強い。しかしジェンダーがセックスの意味を規定するという理解は同じである。バトラーは、ジェンダーが先にあり、その見方に従ってその人間を「男」と見るから「その人のセックスは男だ」と見られる、と言っている。単純化すれば「男(女)として見るから男(女)に見える」と言っているのである。あるいは、権力・文化装置によって「男(女)に見える」ように強制されるから「そう見えるのだ」とも言うことができる。例えば、ジェンダーの基底には「異性愛のマトリックス」があり、それによってセックスやセクシュアリティのあり方が配置されていると捉えているのである。

 このようにデルフィもバトラーもジェンダーがセックスから独立していると捉えた上で、ジェンダーがセックスを規定すると捉えている。そのさい、両者のあいだで「ジェンダー」の定義が異なっていることは無視してよい。ジェンダーとセックスの関係に関する両者の論理構造が同じだという点が重要である。すなわち、ジェンダーの独立性が崩れれば、その論理構造そのものが崩れるということを意味しているのである。

 このように、マネーの実験の失敗は、フェミニストの「ジェンダー」定義を無効にするほどに深刻なものだったと言うことができる。少なくとも「ジェンダー」という言葉を今までどおりの「生得的な性差とはなんの関係もない」という意味では使えなくなったことだけは確かである。つまりは、「ジェンダー」という言葉を使わなくするか、まったく異なる定義をし直して使う以外に、道はなくなっているのである。

 

ジェンダー擁護論の崩壊

 以上で詳細に証明したように、macska の主張が完全に間違っていることは、もはや明瞭であろう。マネーの「セックス・ジェンダー区別論」と「ジェンダーが生育環境によって変えられる」という理論は「全然関係ない」どころか、きわめて密接な関係にあり、しかもそれらの理論はマネー自身によって「双子の症例」と関係づけられ、その症例によって証明されたと主張されているのである。その理論がその症例より前から存在していたとか、その症例から導き出されたものであるかないかは、別問題である。症例が後から出現したとしても、マネーはその症例を自身の理論の決定的な証明とし、補強としたのである。これを「全然関係ない」などとは言うのは不勉強以外のなにものでもない。

 macska がこうした決定的な間違いを犯したのは、「双子の症例」の失敗がもたらした深刻な打撃から「ジェンダー」概念を守ろうとして無理をしたからであろう。だがその試みは、以上で明らかにしたように、哀れにも瓦解している。

 上野氏をはじめとするフェミニズムのジェンダー理論は脳科学の発達によってすでに否定されているが、「双子の症例」という砂上の楼閣が崩壊したことによって、決定的な打撃を被っているのである。その事実は、 macska のような間違いだらけの弁護論では到底ごまかすことはできないのである。

 崩壊したフェミニズムのジェンダー理論を基になされる実践によって、はかりしれない弊害が生じているし、これからも生ずるであろう。元凶である間違ったジェンダー理論を葬りさることが、緊急に求められていると言えよう。

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