フェミニズム

 

29 (2-7) この論争の総括

           (平成18年2月14日初出)

 この論争は何だったのか。結果だけを見れば、私が相手をするほどの人間ではなかった、という結論になる。こんなくだらない者を相手に貴重な時間を使うべきではなかったという意見も聞かれる。しかし、それは結果論である。この者が取るに足らない人間であることは、私が苦労して論争したからこそ明らかになったことである。

 では苦労して論争したことによって、何が明らかになったのか。そのことをきちんと総括することが、この論争に付き合わせた読者の皆さんに対する義務だと考える。

 

macska の「矛盾」への固執

 この論争の本質は、論争の経緯を単純化してみると、よく分かる。macska は私のジェンダーフリー教育批判には、論理的な矛盾があると批判した。すなわち「生物学基盤論を唱えながらジェンダーフリー教育の弊害を叫ぶ」のは「矛盾」だというのである。

 それに対して、私は単純な「生物学基盤論」ではない(私は社会的・文化的要素も加味して考えている)から、少しも矛盾していないと反論すると、macska は「矛盾」を次のように言い換えた。

「性自認は変更できない」「まぜこぜ教育によって性自認が変わる」という2つの主張は両立しません

 「矛盾」の内容を単純化して言ってくれたので、問題点が明瞭になった。

 macska の論理では、私の「性同一性障害に陥る恐れがある」という文章は「性自認が変わりうる」という意味になる。

 ただし、そのことが言えるためには、「性同一性障害になる」がイコール「性自認が変わる」でなければならない。しかし私は「性同一性障害になる」という言葉を、「性自認が変わる」という意味で使っていない。なぜなら私はこのコラムでは、性自認の混乱を念頭においていたからである。

 

「矛盾」を支える唯一の定義

 すると macska は「性同一性障害」という言葉をそういう意味で使ってはいけない、と言い出した。「性同一性障害」には「性自認の混乱」を含めてはいけないというのである。そしてその証拠として主にアメリカで使われている診断基準のDSM-IVを持ち出した。それには性同一性の混乱などという定義は存在しない、というのである。

 macska はDSM-IVに述べられているような「性自認が逆になる」もののみが「性同一性障害」だということに固執している。しかし定義はたった一つではなく、「性自認の混乱」を含める定義と含めない定義がある。

 私が ICD-10を持ち出したのは、それが正しいとか、より有効だと主張するためではない。精神医学においては、基準だの概念だのというものは絶対のものはありえないということを示すためである。たった一つの基準に合致していないからと言って、「専門的でない」とか「学術的でない」と断定することの方が、科学的・学問的でないし、方法論的な誤りと言うべきである。

 ここにいたって、「矛盾」という批判の根拠の薄弱さが露呈してきた。私が「性同一性障害」という言葉をDSM-IVの意味で使っていたのならば「性自認は変わる」と言ったことになるから「矛盾」であるが、それに従っていないのだから、「矛盾」とは言えないのである。macska の定義によれば「矛盾」であるが、私はmacska の定義に従っていないのだから、「矛盾」ではないのである。問題はせいぜい私の用語がDSM-IVの意味に従っていないことに縮小された。

 要するに、macska の批判は、大袈裟な「矛盾」の弾劾から、結局は「性同一性障害」という言葉の使い方が悪いというところにまで矮小化されてしまったのである。

 

ジェンダーフリー教育で性自認は混乱するか否か

 さて、もう一つの論点「生得的な部分と文化的な部分との関係」について、じつは macska は論争が一段落してから、コメント欄で、私の考えは「一般論としては間違っていない」と言いはじめた。

一般論として林氏の言う「生得的な部分と文化」の関係はその通りだと思います。

 おやおや、そうですか。認めてくれましたか。と喜んだのもつかの間「しかし」と続く。

しかし、だからといって学校教育においてことさらに区別を付けなければ「生まれつきの傾向」が発動しないなんてデタラメです。社会には家庭も近所もありますし、テレビの中でも商店街でも男女の区別は存在します。

 やっぱり分かっていないのである。生得的な性自認は基本的な型を決めるだけであり、生後の発達の過程で、その具体的な内容を経験し取り入れ、豊富にしていく中で、確固としたものになっていくということが、この者には本当には分かっていないのである。

 性自認というものは、生まれたときにすでに完全な姿をしていて、その後は不動だというものではないのである。生まれたときには不定形で抽象的な傾向としてしか存在していない。それに対して、身のこなし、服装、話し方、言葉遣い、心理、感情などの多くの特徴を身近な「模範」を見習いながら身に付けていく。それらのイメージの総合(異性との違いのイメージを含めて)として性自認が具体化・発達していくのである。

 このことは性自認についてだけではなく、心の発達すべてについて言えることである。性役割についても、ジェンダー一般についても、また母性についても父性についても言えることである。性別に関するアイデンティティーが自我アイデンティティーの重要な基礎だとはそういうことである。

 このように性自認は生まれたときの抽象的な「型」「パターン」の状態から、具体的で豊富な内容やイメージを持ったものへと発達するのである。だからその間に、性の区別に関わる具体的イメージを否定するように「教育」されたら、せっかく具体化しつつある性自認に混乱を起こす危険がある、ということを私は強調してきたのである。

 macska は「学校教育においてことさらに区別を付けなければ「生まれつきの傾向」が発動しないなんてデタラメです」と言っている。何度注意しても私の言っていないことをデッチ上げる癖がぬけないようだが、誰もそんなことは言っていない。学校でことさらに性別を否定することが「弊害を生む」と言っているのである。

 学校のほかに「社会には家庭も近所もありますし、テレビの中でも商店街でも男女の区別は存在します」と言うが、参画局や自治体の多くはそれらすべての「ほかの」場面でも「ジェンダーに敏感な視点」を要求しており、性別役割分担を筆頭に、男女の区別をことごとく槍玉に挙げて否定しようとしてきたのである。その一環としてジェンダーフリー教育が位置づけられているという構図を見失ってはならない。

 混合名簿を旗印にして、男女の区別を否定するように、「ジェンダーチェックリスト」を使ったり、各種の教科や作文指導などを通して洗脳しているのが、ジェンダーフリー教育なのである。

 macskaにはジェンフリ教育の実態に対する決定的な認識不足がある。ジェンフリ教育の実態は、ネット検索したり、フェミ仲間の情報で把握できるものではない。全国からの切実な訴えは、私のようなアンチ・ジェンフリ派に届くのであり、フェミニストの元には決して届かないからである。

 

「双子の症例」の真の意味

 先ほどの引用に続いて、macska は「双子の症例」を引き合いに出して、こう述べている。

ましてや、それら全てを動員しても「ブレンダ」の性自認を「女性」へと導くことができなかったのですから、「混合名簿などのまぜこぜ教育」くらいで性自認が変わるわけがありません。「双子の症例」の失敗を林氏は「生まれつきの性自認の頑強さ」の証拠として認定しているわけですから、同時に「混合名簿などのまぜこぜ教育」程度で「性同一性障害」が起きる、とは(普通の「性同一性障害」の定義を取る限り)絶対に言えないはず(矛盾している)なのです。

 なんとしても私が「矛盾」していることにしたがっている。どうしても自分の定義を「普通」にしたいようだが、macska の定義を採用した場合にのみ「矛盾」だと言っているわけだから、逆に言えば別の定義を採用している私は「矛盾」していないことになる。

 それはともかく、macska が「双子の症例」について決定的に見落としていることがある。「双子の症例」の意味していることは、単に「性自認は変えられない」ということだけではない。もう一つ決定的な意味がある。それは、性自認を変えようとした働きかけによって、ブレンダの心が極度に混乱させられ、さんざん悩んだ末に男の子として生きる道を選んだ、しかし結局は自殺にまで追い込まれたという事実である。生得的な性自認と異なる自認を持つように圧力を加えることが、いかに非人道的なことであるかということ、いかに心理的に混乱を引き起すかということを、ブレンダの事例は示しているのである。

 ジェンダーフリー教育も原理的には同じように、子供の心に混乱をもたらし、正常な発達を阻害する可能性があるという意味で危険なのである。ブレンダの事例ほど極端ではないにしても、ことさらに「性差はない」と教えるのは、混乱を引き起す可能性があると言っているのである。可能性や危険のあることは差し控えるのが、本当に子供のためを考えているということではないのか。

 macska は、その程度で「性同一性障害」という言葉を使うのは大げさだと批判している。しかし現実に子供たちの心への影響を見ていると、私には決して大げさとは思えないのである。むしろ定義を極端に狭くしておいて、そうなる危険はないからジェンダーフリー教育をしてもかまわないと言わんばかりの議論をする方がよほど無責任であると言わなければならない。

 

「洗脳」の定義を極端化して「洗脳」であることを否定

 macska はジェンダーフリー教育をなんとか弁護したいらしく、ジェンダーフリー教育が「洗脳」だという表現は大げさだと批判している。 macska は「洗脳」の極端な定義をどこからか(この者の頭でひねりだしたのか)持ち出してきて、「そんな極端なことはするはずがない」といって反論したつもりなのである。

 相変わらず言葉の定義を操作することによって、「洗脳」の事実をないことにしようとしたのである。定義を変えてしまえば、その事実が「洗脳」ではなくなってしまう。ずるい操作である。こうした手品で、macska はジェンダーフリー教育が「洗脳」だという非難をかわしているのである。

 しかも、念のいったことに、自分の方の定義を「専門的な定義」であるかのように見せかけた。 macska が示した「洗脳」の定義は、戦後の一時期に中国共産党が行った思想改造の方法に近いが、しかし今ではそんなに厳密な意味では使われていないものである。

 しかるに、どこかに「専門的な定義」があって、自分はそれに従っているのだという「見せかけ」をして、権威づけるという手を使っているのである。これもまた得意のハッタリである。しかも、その「専門的な意味」の出典も根拠もついに示されなかった。

 そして私の使い方を素人のそれだと批判しているが、しかし「専門的」な意味で使わなければならないような場面ではないし、その必要性もない。私の方はきちんと根拠を示して、どの国語事典をとっても、普通の意味が出ていることを明らかにしている。ジェンダーフリー教育は、普通の意味での「洗脳」をやっているのである。

 

方法論的思考の欠落

 全体としてこの者の思考様式を見ていると、この者には概念と現実との区別ができていないようである。私が二度目の反論の中で「概念としての区別は明確でなければならないが、実際の場でははっきり区別できない場合がある」と指摘した。さすがに、この程度のことは分かったと見えて、以後言わなくなったが、しかし依然として概念と現実の区別はいっこうについていないようである。というより、概念と現実との関係いかんという方法論的問題について、何も考えたことがないようだ。

 概念を使い、それを現実に適用することの難しさ、恐ろしさについて、つまりは概念の必要性と危険について、一般的に言うと方法論の大切さについて、まったく考えたこともないようである。

 それはこの者が、そもそも枠組みとか、ルールとか、方法論というものを崩したいという心理を持っているからかもしれない。概念に対する尊重も畏れもないと、概念(言葉・定義)を歪めたり、悪用したりすることが平気になる。

 この者は概念を軽んじてもてあそんでいる。ということは、概念を現実の世界とは関係なく使っているということである。そうすると、概念が現実から離れて一人歩きするようになる。そしてついには概念に支配され、概念から制約を受けるようになってしまう。自分が依拠している概念(定義)だけが絶対だと思い込むようになるのである。

 概念は現実とは違うのだという謙虚さと、しかしできるだけ現実に近付けようという努力が必要なのであり、それがないと概念と現実の緊張関係がなくなってしまう。

 例えば、この者は、概念(定義)の中にないことは現実の中にもないと思い込んでいるようだ。例えば、「性同一性障害」についての「ひとつの」定義の中にないというだけで、現実にもないと思い込んでしまう。また「洗脳」の最も極端な「ひとつの」定義をもってきて、その特殊な意味の「洗脳」は現実には存在しないと主張する。こうして概念が現実を支配するようになってしまうのである。

 概念というものの難しさについて考えたことがないから、怖さに対する自覚がない。すると概念の奴隷になっていても、気づかない。いつの間にか概念に対して無意識のうちにフェティシズムに陥るのである。つまり、概念絶対主義である。概念は「純粋型」としての「索出手段」であり、そのとおりのものが現実に存在しているわけではないのだが、現実が概念どおりになっていると思い込んでしまうのである。

 総じて、この者は具体的思考しかできなくて、抽象的・方法論的・体系的な思考が不得意だという特徴を持っている。つまり概念を適切に使って思考することが不得意なのである。例えば、概念(定義)の中に存在しないことは、現実の中にも存在しないと思ってしまう。macska の「性同一性障害」についての「定義と現実の乖離」についての無理解の中に、そうした欠陥が明瞭に現れている。

 

macska の狙いと動機

 以上、詳しく見てきたように、macska の批判は方法論の欠如に基づき、しかも一つの言葉にこだわった偏狭なものであった。こんな低水準の批判をなぜ macska は公表したのであろうか。

 たしかに、フェミニズムの正当性を守ろうとする立場からは、macska の目のつけどころは的を射ていたと思う。macska の批判の対象になった私のコラムは、ジェンダーフリー批判の先駆けであり、それをきっかけにジェンダーフリー批判が澎湃(ほうはい)として起こってきた、先駆的なものであった。敵の理論的指導者を狙い撃ちしてきた勘はたいしたものである、と私は思った。しかし、どうやら、それは macska に対する過大評価だったようである。

 macska は何のために私を批判したのか。この問いに対しては、「それはフェミニズムやジェンダーフリーを守るためだろう」と思うのが普通であろう。つまり反フェミニズムの理論的指導者である私に対して、フェミニズムの理論的正当性を守るために(あるいは敵の指導者の権威を落とすために)論争をしかけてきたのだと理解するのが普通である。もちろん私も最初はそう受け取り、反論することにしたのであった。しかし、そのような理解では、説明のつかない現象がいくつも出てきたのである。

 例えば、特徴的だったのが「この問題で私にからむなんて、いい度胸しているよ」という発言である。こういうことを、何の客観的根拠も明示しないで言うのは、見せかけやハッタリで勝負している証拠である。また仲間や世間に対して、自分は偉いと見せかけたいという動機を持っている証拠である。

 もう一つの証拠は、この者が即日に反論を出し続けたことである。普通、反論というものは、慎重に吟味してから出すものである。しかしこの者は、私が反論を出すと必ず、一回の例外もなく、即座に反論を出し続けた。これはかなり異常な行動である。ほとんど強迫神経症的なこだわりと言える。

 この異常な行動は、この者が極端な負けず嫌いであることを示している。即刻反論を出さないと負けたような気持ちになってしまうのである。悪態の限りを尽くすのも、「勝っている」というように見せかけるとともに、自分が「勝っている」と思いたいためであろう。だからこそ macska は汚いテクニックを使い、自分に都合のいいように相手の言っていることを歪めたり、言っていないことを捏造したのである。

 これらの特徴から次第に分かってきたのは、この者の動機はフェミニズムのために論じているのでもなく、確固とした主義があるわけでもなく、いやどんな主義にも忠誠を誓っているのでもなく、ただ自分を偉く見せるための演技をするという、きわめて個人的な動機に従っているだけであるということであった。これは自己顕示欲が強く、負けず嫌いだが、実力が伴っていない場合に現れる特性である。

 「矛盾」の論拠が崩れるということは、自分の権威が崩壊することである。だから、なにがなんでも、私が「矛盾」していることにしなければならなかったのである。こうして、嘘や過ちを指摘されると暴れまくったために、議論が混乱し長引いたのである。

 

「ユングとの関係」という論点の重要性

 この特徴が最もよく現れていたのが、「ユングとの関係」という論点であった。

 じつは私は「私の論点がユングと関係あるかないか」について、初めのうち重要視していなかった。そんなことは主題とは関係ないし、どうでもいいことだと思っていたからである。「ユングについて知りもしない人間がバカなことを言っているわい」くらいにしか受け取っていなかった。

 しかし、 macska は異常なほどにこの問題にこだわり続けた。「ユングとの関係」という論点を、私がいい加減な屁理屈をいい、矛盾したことを述べている証拠として、私を嘲笑するために使っている。結局この問題を macska は、自分の権威を守り、私の権威を落とし、私を「馬鹿な論争相手」にみせかけるために使っていたのである。

 しかし、逆に、この論点には、macska のハッタリ癖と知ったかぶり、自己顕示欲の強さ、そしてハッタリが崩れそうになるといろいろな手口を使ってごまかすという習性が典型的に現れている。私がいい加減なのか、macska がごまかしているのかは、重要なので、問題点を整理しておく。

 

「関係ない」と「無関係ではない」という矛盾 ?

 macska は私が「ユングは関係ない」と言っていると宣伝をした。そして別の所では「無関係ではない」と言っているから、私が矛盾したことを言っていると宣伝している。例えば、

「ユングとは関係ない!」と来て、関係アリアリの証拠を挙げると「全くないとは言っていない」(笑) 何を信じればいいのか

と言って笑いものにしている。

  macska の言い方だと、「関係アリアリ」の証拠を突き付けられた私が、しどろもどろに「関係ないわけではない」と弁解したことにされている。じつに汚いテクニックを使うものである。

 しかし私は「関係ない」に明確な限定をつけた。すなわち「この場合ユングは関係ない」という小見出しを付け、本文では「ジェンダーの問題をユングと関係づけたことは一度もない」と言っているのである。さらに、「私の学問全体としてはユングが基礎になっている(ユングだけではなくいろいろな思想家も基礎になっている)。だから無関係ではない」と説明した。丁寧な説明の中の一言半句 を取り出すと、いかにも矛盾したことを言っているように見せかけることができる。そして「国語の授業を受けよ」とまで悪態をついた。汚い論争の仕方、というより恐ろしい詐術である。さらに、「関係アリアリの証拠」というのがまた大嘘なのである。

 

後から「ユング」を探しても遅い

 私が「この場合ユングと関係ない」とか「ジェンダー論に関しては関係ない」と限定しているのに、macska は何度でも私のジェンダー論以外の所から、私が「ユング」に触れている箇所を探し出しては「ユングと関係あり」の「証拠」として出し続けた。どういう神経をしているのか、どういう頭の構造をしているのか、理解に苦しむ人間である。

 まず macska は「PHP人名事典」を検索したのだろう「関係あり」の証拠とした。後からいくら「証拠」を持ち出しても、最初の時点で根拠もなく「関係あり」と書いた過ちを隠蔽することはできない。

 それが間違いだと言われると、次には私のホームページから、内田樹氏への反論を検索してきて、「私の学問は心理療法、カウンセリングと関係ある」と言っているから、ユングとも関係あると言う。「心理療法、カウンセリングと関係ある」からと言って、ユングと関係ある証拠にはならないと言われると、最後には私のホームページの中からユングが出てくる箇所を引用する。しかし、そこは母性に関する箇所だから、「ジェンダーの問題では関係はない」という私の言い分に対する反証にはなっていない。

 どの場合を取っても、すべて「検索」と「コピ・ペ」(コピー・アンド・ペースト)で事を済まそうとしているが、苦し紛れのごまかしでしかない。本当は証拠になっていないことを自分が一番知っているので、「関係アリアリの証拠」だと、言葉だけでありそうに印象づけようとしている。まるで子供だましの嘘である。

 このように、一つの論拠が崩れると、次から次へとごまかしの論拠を出してくるところが、まさしく負けず嫌いで顕示欲の強い演技型人間の特徴なのである。しかし、それらの証拠はどれをとっても言い訳にはなっていない。そもそも後になって何を出してきても、最初に無知で根拠もなく知ったかぶりをしたことを隠すことになっていないのである。

 

なぜ「亜流」と言ったのか

 次に「亜流」の問題であるが、要するに一口で言えば、私のユング解釈が「一般的解釈」とは違うから「亜流」と言ったのだということである。ところが macska は「ユングを少ししか読んで」おらず(それも本当かどうかは疑わしい)、そのうえ私の本を一冊も読んでいないと言っている。それでどうして「私の解釈」が「一般的解釈」とは違うということが分かるのか。両方ともに精通していなければ、決して言えないことである。 macska 一流のハッタリとしか言うことができない。

 ついでに、この者が「亜流」という日本語の意味も分からないで使っていることにも触れておこう。もし私が「亜流」だというのならば、「亜流」というのは「第一流の人に追随し、ただそれを真似るだけで独創性がなく、劣っていること。また、その人」(広辞苑第五版)という意味であるから、「一流をそのまま真似したもの」という意味である。それなら私は「一流の解釈」(それはしばしば一般的解釈になっている)に従っているはずであり、独自の解釈など入りこんでいないはずである。それでいて「林氏オリジナルの解釈」だと言う。「オリジナル」とは「独創的」という意味である。一流の真似だけしている人間にはできないこと、するはずのないことである。もっと日本語を勉教してほしいものだ。

 さらに macska は「もしユングでなければ、単なる一老人の妄言だもの(笑) 」だと、平然と差別用語を使って侮辱し、「笑い」の種にしている。これはこの者の年配者への差別感覚を示していると同時に、なんとしても相手を見下して自分を優位に置きたい心理的動機の強さを示している。しかし、どんなに言い繕おうと、ユングについても、ユングと私の関係についても、何も知らないままに、ハッタリを使って偉そうなデタラメを言ったという事実をごまかすことはできないのである。

 この者はごまかしがきわめて巧妙で、黙っているとこちらが「汚い」とか、「矛盾」を犯しているとか、「一老人の妄言」だとされてしまう恐ろしさがある。こういう無法者がフェミニズムの世界で暗躍し、「バックラッシュ」派の「矛盾」をデッチ挙げて、フェミニストたちのあいだで手柄を立てて、やがて表舞台に登場してくるのだろうか。この者が同じごまかしの手口を使わないように、よくよく見張っていなければならない。

 

「双子の症例」についての大嘘を撤回せよ

 さて、そもそも私がこの論争を始めたのは、macska の表題どおりジェンダーに関わる大きな問題と受け取ったからである。しかし macska は、「性同一性障害」という言葉ひとつが主題だったと言って論争を終わらせてしまった。この者には方法論的・体系的な思考がまったく欠けており、物事を部分的にしか見ることができないと言うことができる。しかし、次にアップしている『「双子の症例」と「ジェンダー論」との関係』という論文は、単なる言葉の問題ではなく、まさにジェンダー論の破綻を明らかにしている。

 macska は、事あるごとに「双子の症例が失敗でも、ジェンダー論とは関係ない」と述べている。しかし、それは大嘘だということを私は『「双子の 症例」と「ジェンダー論」との関係』で論証したのである。すなわち、macska がマネーのジェンダー論を間違って捉えていること、現代のフェミニズムにとってマネー理論がどれほど重要なものかを認識していないこと、「双子の症例」の真の意味を理解していないこと、そして上野氏のジェンダー論のごまかしを見抜けていないこと、これらを明らかにしたのである。とくにジェンダー論にとっての「双子の症例」の決定的な意味と、それと関連した上野氏のジェンダー論のごまかしについては、これまで論じられたことがないと思われる。

 今までは即日に反論を出していたのに、この問題では異常な沈黙を守っている。これに答えられないのなら、今後この問題で発言することはできないはずである。

 反論できないのであれば、「大嘘」は即刻ネット上から削除すべきであろう。

 

補足・ macska の間違いの整理

  macska との論争の掉尾を飾る「『双子の症例』と『ジェンダー論』の関係 ──『ブレンダと呼ばれた少年』の打撃をフェ理屈でごまかす人( 「フェミニズム批判 29-3)」は、 macska の根本的な間違いを白日のもとにさらした。ただし、長い論文なので、時間のない人のために、 macska の間違いを以下に整理して箇条書きにしておく。

1 まず事実に関する間違い。

 マネーの「ジェンダー」理論成立の「きっかけ」が、「性同一性障害の患者」だったと述べている点。またマネーの「社会的な性=ジェンダー」というのは、今の言葉でいう「性自認=ジェンダー・アイデンティティ」のことであって、上野さんらフェミニストが問題とする性役割や「社会的に構築された男性性・女性性」といったモノとは全然意味が違うわけ。と書いている。

 これらは事実としてはっきりと間違っている。

 第一に、マネー理論誕生の「きっかけ」は「性同一性障害の患者」ではなく、「半陰陽者」であった。

 第二に、マネーの「ジェンダー」は「性自認」だけでなく、「性役割」も含んでいた。

 第三に、上野氏らは「性役割」「性自認」だけでなく、「性自認」をも問題にしている。

 これは単なる事実の間違いというのではなく、『性の署名』も上野氏の著書も読まないで、ハッタリで書いていたことを示している。「小山エミ」の表現を借りれば「読んでもいないで、デタラメを書くという、顕著な傾向を示している」と言える。

2 マネーが「ジェンダー」という言葉を「セックス」と区別したのは「双子の症例」とは関係ないし、さらに言うと「生育環境によって変えられるかどうか」といった議論とも全然関係ないコンテクストだもの。

というのは、完全に間違っている。マネーの「ジェンダー」論が「双子の症例」とどれほど密接な関係にあったかを、私は上記論文で詳細に論証している。

3 「マネーの「双子の症例」に依拠した主張は、上野も大沢もいっさいしていない。」とはあきれた開き直りである。上野氏と大沢氏のジェンダー論がいかにマネーのジェンダー理論に依拠してきたかを、私の論文はいかんなく暴露している。上野氏が字面の上で「双子の症例」に言及しているかいないかではなく、「双子の症例」によってしか言えないことを言っている点が重要なのである。上野氏の狡猾な間違い隠し(隠蔽工作)を完膚なきまでに暴露した私の論文を読んでいないかのように、「双子の症例」に「依拠した主張はいっさいしていない」とは、あきれた厚顔であり、恥知らずである。

4 「悲劇の本質」をマネーの非倫理性にのみ求めて、そのジェンダー理論は関係ないという主張をしている。それによってマネー理論の破綻を救い、マネー理論に依拠してきたフェミニズムをも弁護したいのであろう。しかし、マネーの非倫理性は、彼が自己の理論の間違いを認めようとしないで、無理に守ろうとしたことから生じたのである。彼の非倫理性と彼の理論的間違いとは、切り離しがたく結びついている。一方だけを断罪し他方を弁護することは不可能である。

 以上であるが、 macska はこれらの間違いの指摘に対してまったく答えることができないまま、今日に至っている。『バックラッシュ !  なぜジェンダーフリーは叩かれたのか ? 』(双風社)で macska こと小山エミがブレンダ問題を論じているが、私については「劣化している」というだけで、私の上記のブレンダ論文に一言も反論できていない。こういう長い論文を読む能力さえないのではないか。

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