フェミニズム

 

29 (2-6)どちらが本当の「本題」か ( macska への反論 1-6)

           (平成18年1月29日初出)

 この論争の本質がようやく明らかになってきた。同時に結末も見えてきた。論争というものは、当事者同士で意見の一致をみることは稀であり、対立点が明らかになって、あとは読者の判定にまかされる形で終結する。この論争も、やっと対立点が鮮明になった。対立点は、奇妙なことに、「そもそもの本題は何か」というものである。

 延々と論争してきた末に、「もともとの本題は何か」という形で対立点が鮮明になるというのは、なんとも奇妙であり、数々の論争を経験してきた私でも経験したことはないし、見たことも聞いたこともない。これはどちらかが「本題」をごまかし、「本題」から逃げているからこそ起きる現象である。

 どちらが本題から逃げているのか。読者から見たら、判定しやすい形になってきたと言える。読者が判定しやすい形に整理できれば、 macska が望んでいるように、この論争を終わらせることができる。

 では対立点を整理してみよう。

 

私が主張している「本題」とは

「性差の生得的な部分と文化的な部分の関係」及びそれとの関連で「ジェンダーフリー教育」

 

macska が主張している本題とは

「混合名簿などのまぜこぜ教育によって性自認が逆になるほどの性同一性障害が起きるのかどうか」

 

私の主張する「本題」

 私の主張する「本題」について述べておこう。私は、事の発端である macska の私への批判の表題「生物学基盤論を唱えながらジェンダーフリー教育の弊害を叫ぶ矛盾」を見て、また「林氏はジェンダーの形成に生物学的要素より社会的・環境的要素が強く影響していることを主張しているように見える」などの記述から、問題となっているのが「性差の生得的な部分と文化的な部分の関係」及びジェンダーフリー教育だと理解した。したがってその観点から「矛盾」でないことを論じてきた。

 

macska の「本題」がいかにおかしいか

 次に macska が主張している「本題」が本当の本題かどうかを検討してみよう。これは簡単に判定できる。すなわち、もし万一、この論点で macska が全面的に正しいと仮定してみれば明らかになる。性同一性障害に関する macska の議論がすべて正しいとしても、私の元の文章(前回の末尾に全文引用してある)のうち、「これが揺らいで定まらないと、性同一性障害に陥る」というたった一行しか否定できないのである。

 「性同一性障害」という言葉の意味をどれだけ論じても、「生物学基盤論を唱えながらジェンダーフリー教育の弊害を叫ぶ矛盾」を証明できはしない。

 わかりやすく言えば、「性同一性障害にはならない」といくらがんばったところで、「こうした男女無区別主義は恐ろしい弊害を生む危険がある。男女の区別をしないと、子供たちのアイデンティティーが健全に作られない、つまり自我が正常に発達しないからである。」という私の主張はビクともしないからである。 macska の唱える「本題」が「全体の中の一つの部分」にすぎないことは明らかである。

 

どちらが逃げているか

 私は macska が「本題」だと主張している「性同一性障害」の論点から逃げたことはない。論争の記録を見れば誰でも確かめることができるように、その問題について「相手の土俵に上ろう」と言った上で、私は正面から論争に応じている。それは読者の皆さんが見ている。その議論が macska の気に入るかどうか、第三者から見て正しいかどうかは別問題である。私の方は相手の「混合名簿などのまぜこぜ教育によって性自認が逆になるほどの性同一性障害が起きるのかどうか」という論点にも答えてきた。

 それに比べると、 macska が私の主張する「本題」から、理由を何と言おうが、逃げていることだけは確かである。私は当初から一貫して「生得的な性差と文化的な性差」の関係、子どものアイデンティティ形成の問題を論じ、矛盾がないことを論証してきた。さらにそれらについての詳しい説明として新著からの抜粋も今回わざわざアップした。

 しかし、macskaはこれらを完全に無視し続けてきたのである。それは、この本当の本題について論じ始めると macska に勝ち目がないことを当の本人が一番分かっているからであろう。

 私が主張している本題について論じる気があるかないかを確かめた上で、次の段階に入ることにする。

 

加筆 論争継続の意思表示

           (平成18年1月31日加筆)

「やめる」のか「やめない」のか

  macska がこの論争を収束したいと意思表示をした。と思ったら、中身は今までどおりの論争を蒸し返し、私を内容と論法の両方にわたって批判している。

 私はこの論争を終結するにあたって、(私の提示する主題について議論を続ける気がないのならば)議論をやめて、今までの内容についての判定は読者にまかせようと提案したのである。そのさい、私は論争の具体的内容には触れていない。

 それへの返答としては、 macska はただ、私の言う「本題」について論争を「続けたい」か「続けたくない」とだけ意思表示すべきであった。しかるに、 macska は論争を続けたくない理由にかこつけて、何点にもわたって論争を蒸し返し、私を批判している。

 第一に、この論争の性格や経緯を一方的に自分に都合のいいように総括し、自己正当化を図っている。

 第二に、「まともに論理の通用する相手ではない」とか「普通に論争しているだけで訴訟をちらつかせるような人物である」とか、私の人間性を否定している。

 第三に、「「性同一性障害」「洗脳」といった言葉の用法が デタラメであったことを自ら認めて、またそれを誤摩化すためにわたしに不当な攻撃を続けてきた」と述べている。

 これまでの論争を全面的に蒸し返しているのである。これがどうして「やめたい」という意思表示なのか。ここまで言われて、私の方はやめるわけにはいかなくなった。

 

停戦交渉中に発砲したようなもの

 これは停戦の握手をしましょうといって右手を差し出しながら、左手でなぐってきたようなものである。

 戦争にさえルールがある。中でも、停戦交渉中に攻撃しないというのは、ルール以前のあまりにも当たり前の常識であり、それをやったら停戦交渉そのものが壊れる覚悟でやるものである。

 今回の macska の態度は、停戦交渉中にミサイルをぶちこんでいるようなものである。

 とくに許せないのは、

「性自認は変更できない」「まぜこぜ教育によって性自認が変わる」という2つの主張は両立しません

ということを言いたかっただけだという箇所である。つまり私が言ってもいない「まぜこぜ教育によって性自認が変わる」ということと「性自認は変更できない」が矛盾していると主張しただけだということになる。

 私は「まぜこぜ教育によって性自認が変わる」などとは一言も言っていない。私が言っていないことを持ち出して矛盾していると非難しただけのことだったと白状したようなものである。人の言っていないことを持ち出せば、「矛盾」をでっち上げることは容易である。

 しかも、 macska は私の短文の中の、さらにその一部について批判しただけだと言っている。それならどうして大袈裟な表題をつけ、全面的な批判を装ったのか、釈明が必要であろう。

 その他にも、私の著書を一冊も読んでいなかったと白状しながら、私のユング解釈を勝手にデッチ上げたり「亜流ユング主義者」と断定したことについて謝罪するでもない。

 

議論を続ける必要あり

 ここまで言われてみて、私の方にもいろいろと言うべきことが残っていることに気付いた。

 第一に、この論争を全体としてみて、私の立場から総括する必要がある。

 第二に、言い足りなかったこと、相手の批判に答えていないことを補足する必要がある。

 第三に、 macska が答えていないことを整理して、答えを迫る必要がある。

 したがって、私はこの論争をなお続けようと決心した。

 

第二ラウンドを始める

 平行して第二ラウンドを始めようと思う。というのは、この論争については、読者の皆さんの多くが、「もう分かった」と思っていて、これ以上は不要だと感じていることと推察するからである。

 第二ラウンドにおいてもまた、「生得的性差と文化的性差の関係いかん」というテーマが主要なテーマとなる。 macska はそのテーマは今までの論争とは関係ないと言っているが、そんなことはない。それはフェミニズムに関係のある問題には必ずついて回るテーマである。フェミニズムに関する論点はほとんどジェンダーに関することであり、ジェンダーに関する論点でこのテーマと関係のない論点などは、ほとんど存在しない。

 第二ラウンドとして出すのは、上野千鶴子氏をはじめとする日本フェミニストの「ジェンダー論」とジョン・マネー理論の関連をめぐる論点である。ついでに上野氏のごまかしも暴露する。この論文はほぼ出来ているので、一両日中に出せると思う。

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