フェミニズム

 

29 (2-5)ジェンダーの肯定的意味 ( macska への反論 1-5)

           (平成18年1月26日初出)

(『家族を蔑む人々』の第一章の四「ジェンダーの必要性」を引用する。これは、性差の生得的な部分と文化的に発達した部分とを結びつける私の考えが「矛盾」だと批判した macska の誤りを正す意味を持っている。)

 (なお、このテキストの著作権は私に属しており、論争のために部分的に引用する以外は、無断で全文または多くの部分を引用することを禁ずる。)

 

 フェミニストはジェンダーを「作られた二分法」だと言うが、まったく何もないところに勝手に空想して「男女という二分法」を設定するわけではあるまい。たとえ権力(男性)による女性支配を実現するためだとしても、なんの区別もないところに「男女という二分法」を設定することは不可能である。その区分を可能にする実体が予め存在しているはずである。

 その実体とは、生まれながらに存在している男女の差である。この差は、今日では、単なる身体的な差(出産・授乳)ではなく、遺伝子レベルの差であり、また脳構造の差でもあることが明かとなっている。そうした生得的な差を基礎にして男女の文化的な差が作られているのである。

 文化的に発達した性差がすべて「悪い」ものと考えるのは性急にすぎるし、間違いである。文化的性差は必要があって発達してきている面もあり、それらがいかなる必要によって生まれ発達してきたかをよく検討してみなければならない。

 

四 ジェンダーの必要性

(註 ここで、これまで否定してきたフェミニストの「ジェンダー」という用語を使ったのは、フェミニストたちが「ジェンダー」をマイナスの意味で使っているのに対して、皮肉としてプラスの意味で使ったものである。もちろん正確に言うならば「社会的・文化的性差」と言うべきところである。)

 したがって、次にジェンダー(文化的性差)がいかなる意味で必要なのかについて考えてみよう。

 

二項対立思考の必要性

 ジェンダーとは男女の違いを文化的に際だたせるものである。そうした違いや対立として見るという見方が、たとえば男性性(男らしさ)・女性性(女らしさ)の概念が人間にとってどういう意味で必要かを考えなければならない。そのためには、そもそも二項対立が人間という種にとってどういう意味を持っているかをまず考察しておかなければならない。なぜなら男性性とは女性性と対をなす概念だからである。多くのフェミニストは男性性(男らしさ)と女性性(女らしさ)という区別を否定するために、そうした二項対立的な思考法そのものを否定する。

 しかし二項対立的な思考法は人間が生きていくために絶対に必要なものである。二項対立とは意識の立場に立った思考法であり、それに対して無意識の立場からは二項対立は存在せず、すべては融解しあい、そもそも区別ということ自体が存在しない。人間が文化を形成して生きていくためには意識を鮮明にし、物事の区別を明確にするという形をとってきた。これはいはば左脳的な営みではあるが、人間の文化形成にとっては絶対に必要なことである。この営みを最大限に発達させたのがいわゆる近代社会であり、その最先端が科学技術である。

 問題なのはその合理主義的な営みによって排除される領域が出てくることである。それが右脳的な分野、二項対立的な思考から漏れてしまう部分である。たとえば本能の領域や芸術などの創造的な領域である。人類は現在、この合理的な部分と非合理的な部分との対立を、どう調和させることができるかという課題に直面している。

 その場合に、単純に二項対立を否定してしまっては、文化そのものを否定することになりかねない。文化そのものを否定しないようにしながら、二項対立的な方法に問題があるならば、そのマイナス面が出ないようにその使用範囲を限定し、その方法によって排除されてきた非合理的な面を再生させることが必要である。

 

生物にとっての二項対立の必要性

 生物一般にとっても、また生物の中の人間種にとっても、二項対立は絶対に必要なものである。生物にとっては雌雄の区別は生き残っていくための優秀な戦略であることが解明されている。人間にとっても男性と女性が分業するという方策は、単に生殖と保育の次元にとどまらず、生活全般にわたって有効な戦略であった。

 生活全般にわたる男女の二項対立を有効に機能させるためには、単に物理的な分業を成立させるだけでなく、精神的な態度においても対照的な性質の配分を必要としている。たとえば生物一般においても、雄と雌のどちらかが(たいていは雄が)積極的で攻撃的になる。それは性(セックス)における積極性と戦う必要性とを、どちらかの性(雄か雌)が背負わなければならなかったからである。 

 男性性(男らしさ)と女性性(女らしさ)の二項対立も、根本的には、こうした生物としての二項対立的な戦略の一環として捉える視点が必要になる。つまり男性性(男らしさ)と女性性(女らしさ)とは、男性と女性の理想を概念化したものであるが、そうした精神的な態度としての理想は、本来的には二項対立を理想的な形で機能させるために必要となったものである。

 たしかに現実においてはそれが一方の性による他方の性の支配や抑圧に利用され、それによって理想が歪められている面が多く認められるが、だからといって、二項対立そのものを否定するのは間違いである。

 

アイデンティティー獲得にとっての二項対立の必要性 

 男性‐女性という二項対立の中にあって、男性(女性)がアイデンティティーを獲得するためには、自分を男性(女性)としてのメルクマールに同定しなければならない。そのメルクマールは単なる身体的な特徴だけではなく、すぐれて精神的・心理的な特徴としても設定されている。そのメルクマールはもちろん社会的歴史的にそれぞれの社会で決定されている。男性(女性)はそのメルクマールの範囲内で、「自分らしさ」を獲得し、「自分」としてのアイデンティティーを確立していく。

 アイデンティティーとは、「自分が自分らしいと思えばよい」というような簡単なものではない。いくつもの層から成り立っている複雑なものである。たとえば、家族の一員だという帰属感。また自分は男なのか女なのか、どちらなのかという帰属感。そのほかにも日本人という帰属感。故郷や学校や会社への帰属感など、多くの帰属感の累積によってアイデンティティーが形成される。こういう同心円的な層をなす帰属感の集まりが、アイデンティティーの本質である。

 中でも、自分は男または女だという自己意識はアイデンティティーの基礎であり、たいへん重要である。これが揺らいで定まらないと心理的な性同一性障害に陥るばかりでなく、自我そのものが健全に形成されない恐れが出てくる。

 子供は三歳くらいから始まって思春期までには、自分が男または女の特性を持っていることを意識的に確信し、それなりの行動基準が確立されていなければならない。男女の区別を教え、男は男としての、女は女としての、感じ方や行動をとれるようにしてやることは、人類が生きていくために絶対に必要なことである。

 さらに、男性(女性)性の必要性に関して見逃すことのできない重要な問題として、自我アイデンティティーを確立するためには模範が必要である、という事情がある。人間は自我(言い換えれば自分らしさ)を確立するためには、その社会が持っている「人間らしさ」や「男らしさ」「女らしさ」その他の模範を自分の中に取り込みながら、それを少しずつ修正して、自我を確立していく。まったく模範のない真空の中では人間は自我を確立することはできない。その意味で男性(女性)には男性(女性)的な模範が必要である。

 その場合、模範として「男らしさ」「女らしさ」は必要ない、「人間らしさ」だけでよいという意見もあるが、模範のあり方としてはやはり二項対立的な模範が必要になる。というのは、すでに述べた生物としての二項対立の必要性があるからである。

 

男女の区別を意識させるのが文化の役目

 したがって、人類は男女区別を教え込むための文化的な仕掛けをいろいろに発達させてきたのである。もちろん、その具体的な姿は各部族や民族や地域によって異なる。しかし、それぞれに行事や儀礼や教育を通じて、男女の区別を際だたせ、教えこんできたのである。

 たとえば、イニシエーション(参入儀礼)と総称される儀礼は、男女それぞれが大人の男と女になる儀礼であり、男女別々に行われてきた。イニシエーション儀礼においては、子供は抽象的な「大人」になるのではなく、必ず「男の大人」か「女の大人」になるのである。

 文化が発達するということは、男女それぞれの文化が分かれて洗練されていくことであり、日本でも端午の節句と雛祭りがあるように、男女それぞれの儀礼や行事が明確な意味と美しい様式を伴って発達してきた。それらを通じて男女の区別を意識させ、男性または女性としてのアイデンティティーを確立させてきたのである。

 男言葉と女言葉の区別も、男女平等の遅れを示すものではなく、文化的発達と洗練の結果なのである。それをすべて家父長的な遺制であるかのように見るのは大きな間違いである。よく留学生が日本語の男言葉・女言葉の区別を不思議に思ったり、それを日本文化が男女差別をしていた名残りだと受け取る話が、当の日本語教師によって肯定的に報告されているが、日本語を教える者が日本文化の利点について認識できず、単純な差別の問題にすりかえてしまうのは悲しいことである。

 もちろん男女区別文化の中には男女差別が含まれているケースもある。地方には今でも冠婚葬祭のときの御膳の席が男性用しかなく、女性は別室で弁当を食べるなどというように、差別の遺制が残っている。そうした差別的な文化は当然なくしていかなければならない。

 しかし全体として見るならば、男女の区別を際だたせる文化は、決して支配-被支配の関係を主として表しているのではなく、人類の智恵と言うべきであり、必要な修正を施しつつ大切に守っていかなければならない祖先の遺産である。

 

ジェンダーは人類の智恵

 要するに、ジェンダーすなわち文化的に培われてきた性差は人類の大切な文化的財産であり、人間にとって必要な智恵の結晶である。

 男女の区別を教え、男は男としての、女は女としての、感じ方や行動をとれるようにしてやることは、人類が生きていくために絶対に必要なことである。男子を男らしく、女子を女らしく育てないと、カップルを作ることもできなかったり、性行動を取ることもできなくなる恐れがある。とくに男子の場合には、心理的に去勢されてしまい、男性の本能行動にとって必要な積極性を失ってしまう者が出てくる可能性がある。

 したがって、ジェンダーからフリーになろうとするのは大きな間違いであり、ジェンダーは人間にとって必要な文化なのである。ジェンダーという男女の区別を示す文化は、身体的本能的な区別をもとに文化的な具体化と洗練化の結果できあがったものであり、生得的な部分と後天的な発達とが結合したものである。たとえば、「男・女らしさ」は生得的なものであるが、どういう具体的性質を「男・女らしい」と考えて発達させるかは、それぞれの文化によって異なる。しかし文化的必要物であることに変わりない。これを文化的に作られたものだという理由で否定するのは、かつての中国の「文化大革命」(という名の文化破壊)と同じ過ちを犯すことになろう。

 整理すれば、フェミニズムは二つの点で根本的な間違いを犯している。第一は「性差は文化によってのみ出来上がる」と考えている点。第二は「文化的性差はなくすべきだ」と考えている点である。

 

イリイチ「ジェンダー」論の再評価

(省略)

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