フェミニズム

 

29 (2-3)単なるハッタリ屋 ( macska への反論 1-3)

           (平成18年1月21日初出)

 macska がただちに反論を出した。ヒマがないと言うにしては、熱心なことである。よほど負けん気が強いのだろう。しかし中身はごまかしばかりである。読者もいいかげんうんざりしてきていると思うので、簡略に問題点だけを指摘する。

 この者が言っているのは、要するにただ一つのこと、私が大げさな言葉でデマゴギーをふりまいた(それを批判されたら、表現を矮小化して当たり前のことを言っているように変えた、だから卑怯だ)ということだけである。具体的には、「洗脳」「性同一性障害」という大げさな表現を使うデマゴーグだと非難している。

 私が言わんとした大切な内容からすると枝葉の問題だし、読者の皆さんはうんざりするかもしれないので、すでに本質は分かったという人は、ここから先は読んでいただく必要はない。ただし私個人としては、デマゴーグだとまで言われて放っておくわけにはいかない。きちんと反論しておく。

 じつは、この者、「専門家」であるというハッタリの権威で人を欺いているにすぎない。大げさな言い方で、私が「過激な」ことを言っているかのように見せかけていたのである。以下 macska なる者が単なるハッタリ屋にすぎないことを論証する。

 

「洗脳」と言ったのは大げさか

 macska は、私が「洗脳」という言葉を使ったのが大げさだと非難している。

 「洗脳」という言葉が大げさか否かは、第一に「洗脳」という言葉の定義による。第二は「洗脳」だと言われている事実が、その言葉に匹敵するかどうかと関係している。第三は、それを受ける人が大人であるか子供であるかの違いに関係している。それぞれについて考えてみよう。

 まず第一に定義について。この者の特徴は、「性同一性障害」のときもそうだが、当該の言葉を最も極端に狭く定義しておいて、相手をそれからはずれていると非難するというテクニックを一貫して使っている。この場合にも、「一般に洗脳と言えば、長い時間にわたって睡眠や摂食、視界を制限するなどして精神的抵抗力を奪ったうえで思想・信条を改造することを意味する」と述べた上で、私の使い方が「心理学・心理療法を専門とするわりにはシロウト並でいい加減だ」と評している。

 私は「洗脳」という言葉を社会一般で使われているような意味で使っている。この文脈で、なにか専門用語として使わなければならない理由はない。macska も「一般に洗脳と言えば」と一般の使い方として述べている。

 「一般に使われている意味」はどうしたら知ることができるか。それは各種の国語辞典を引いてみれば、およそのところは分かる。国語辞典には、社会の一般的な使い方が反映されているからである。念のため、私は家にある数種類の国語辞典を引いてみた。どれも大同小異「新しい思想を繰り返し教え込んで、古い思想を捨てさせる(改めさせる)こと」と書かれているだけである。macska が描いているような定義はどこにも発見できなかった。私の使い方は、日本社会で「一般に」普通に使われている意味に従っており、「大げさ」だと非難される謂れはまったくないのである。

 第二に、この「一般に」使われている意味の「洗脳」が、学校教育の中で目指されているジェンダーフリー教育の実態と合致しているかどうかを吟味してみよう。じつはジェンダーフリー教育は、ほとんどすべてがこの定義に当てはまるのである。混合名簿に基づいて、なにからなにまで男女まぜこぜにして、区別はいけないという思想を「繰り返し」教え込む、チェックリストでチェックさせて、男女の区別に敏感にさせて常住坐臥それを意識させる。男女を区別していたり、「男らしさ」「女らしさ」をよしとしていた生徒に、それを「改めさせる」ということである。作文を書かせ、「間違った」考えを持っている児童・生徒に「指導」を繰り返し、今までの考えを「捨てたり」「変えたり」させる。「繰り返す」どころか、ジェンダーフリー「漬け」にすることを目標にしているのである。これを「一般的な」意味で、少なくとも各種の国語辞典の意味で「洗脳」と言うのは、大げさでないどころか、そのものずばりではないか。

 macska はジェンダーフリーについて「男だから、女だからといって押し付けはやめましょう」というだけの話だという言い方をするが、これはジェンダーフリーの実際の姿をできるだけ過小評価したいだけであり、現実を知った上ではなかろう。すでに誰の目にも明らかになっているように、この者はアメリカ(?)にいて、日本の現状をあまりご存じないために、のんびりとした牧歌的な現実認識を持っている。ジェンダーフリーとは「男女の違いを押し付けるのはやめましょう」という「だけの話」だなどということは、フェミニストが公式的に嘘の弁解として使っている「だけの話」にすぎない。

 第三に、「洗脳」という行為は、大人の場合と子供の場合とでは、効果がまるで違ってくる。同じ執拗な働きかけでも、大人には「洗脳」と言えるほどの効果を持たない場合でも、まだ批判力が十分でない子供にとっては「刷り込み」とか「洗脳」と言えるほどの効果を持ってしまう、つまり考えを完全に変えられてしまうことがある。子供にとってはジェンダーフリー教育はまさしく「洗脳」の意味を持つのである。

 以上明らかなように、私の「洗脳」という言葉の使い方がいい加減で大げさだというのは、この者が最も極端な意味をデッチ上げておいて、それと比較して「いい加減」に見せかけるというテクニックを使った結果にすぎない。

 

「性同一性障害」と言ったのは大げさか

 同様のテクニックを初めから使っているのが、「性同一性障害」についてである。

 macska は「性同一性障害」を「性自認が逆になる」という意味の先天的なものだけだと思い込んでいた。だから私が言っているのが後天的・心理的なものだということを思ってもみなかった。そのことを指摘されると、次には「後天的心理的な」「性同一性障害」などというものは存在しないと言い出した。つまり私の「性同一性障害」についての認識が「いい加減」だと主張したわけである。

 そしてその根拠としてDSM-IVを持ち出した。これは主にアメリカ・カナダで使われているものであり、いくつかある判定基準のうちの一つにすぎない。これは最も狭い定義を採用しており、かなり厳密に性自認が逆になっているものだけを「性同一性障害」と定義している。macska はこれを「本来の」定義と勝手に呼んで、それを基準にして、私の後天的な「性同一性障害」もありうるという論は根拠がないように見せかけた。こういうテクニックを使って、私が「性同一性障害」でないものまで「性同一性障害」だと大げさに表現したと非難しているのである。

 それに対して、私は ICD-10という診断基準を提示した。これは主にヨーロッパで使われている基準である(日本では両者の中間のような基準が作られていたり、両者を参考に自分独自のものを作っている人もいる)。これを提示しさえすれば「専門家」には分かると思ったが、macska はいっこうに理解できないようなので、説明する。これには、小児期について、

・男性の場合には、

A.少年であることについての持続的で強い苦悩と、少女でありたいという強い欲求、またはより稀には、自分が少女であるという主張。

と書かれている。

 つまり「自分が少女であるという主張」は明らかに身体的特徴とは逆の性自認を持っていることを示しているが、しかしそれは「稀」だと言われている。それ以外は例えば「少年であることについての持続的で強い苦悩と、少女でありたいという強い欲求」は、「性自認の混乱」であり、育てられ方によって心理的に後天的に現れうる症状である。したがって、 ICD-10を基準にすれば、心理的に後天的に現れうる症状を「性同一性障害」と呼ぶことも妥当なのである。

 macska は「性同一性障害」の専門家であるかのように見せかけて自らを権威づけ、アメリカでよく使われる狭いDSM-IVの診断基準を金科玉条にして、それに合わないものを否定し、「本来の意味から逸脱」したものと断罪する。唯一絶対でないものを「本来の意味」と呼ぶのは、ハッタリ以外の何物でもない。

 

もはやメッキははがれた

 要するに、私が最初に言っていたことから後退し、主張をマイルドに訂正したから卑怯だと見えるのは、じつは、この者の方が私の言葉に対して極端で大げさな意味を押し付け、その上で私が大げさな言葉遣いを後に訂正したかのように宣伝したにすぎない。しかも、そうした操作を、自分がいかにも権威を持った専門家のように見せかけて行ったのである。

 こうしたカラクリが分かってしまえば、「正体見たり枯尾花」である。専門家気取りのハッタリも、もはやメッキがはがれたと言うべきである。

 

加筆 ユングとの関係について

           (平成18年1月26日加筆)

 ユングとの関係については、すでに前回の反論の中に入れるつもりで書いてあったが、一つにはどうでもいいことだと思ったためと、いま一つには論点が拡散するのを避けるために入れなかったものである。しかし、よく考えてみると、macska はこの問題を私がいい加減であるという証拠としてこだわっているので、これは私の名誉に関わる問題だと気付いた。また私の学問の根底に関わることでもあるので、簡単に問題点を明らかにすることにした。

林氏にとって、フェミニズムやジェンダーの問題は専門外の分野ではなく、セラピーやカウンセリングの実践と密接に結びついた専門的な関心領域だという。そしてもちろん、林氏はエリック・エリクソンのような発達心理学者ではなく、ユング心理学を中心とした深層心理学・臨床心理学の専門家を自称しているのだから、かれによるセラピーやカウンセリングの実践はユング心理学と無関係ではないはずだ。

 なんにも知らないらしい。まずユング学者はセラピーやカウンセリングをするときに、必ずユング心理学の手法のみを使うと思いこんでいるようだ。これはまったく間違った先入観である。カウンセリングの手法には、例えば交流分析、森田療法、内観法、コフートの自己愛理論の応用、箱庭療法など、たくさんある。私はクライエントの症状に応じて手法を選んだり、それらを組み合わせて使っているのであり、ユング心理学の夢分析だけでセラピーをやっているわけではない。本格的な「分析」の場合にはユング派特有の夢分析を使うが、カウンセリングの場合には夢分析はほとんど使わない。

 また「エリクソンの発達心理学者ではなく、ユング心理学を中心とした深層心理学・臨床心理学を自称している」という所も不正確である。ユング心理学には発達心理学の性格もあり、エリクソンの発達心理学とは非常に近い関係にある。前にも述べたように、私の学問はエリクソンの発達心理学も大いに取り入れている。前にも言ったように、私の学問は多くの学者や思想家を基礎にしており、ユングだけに基づいているわけではないのである。

 もし百歩譲って、私がセラピーやカウンセリングをすべてユング的な夢分析によって行っているとしても、それは私のフェミニズムに関する理論がユング心理学とのあいだに間接的な関係があるという証明にはなるが、「直接の関係」を証明したことにはならない。前にも書いたが、私は「無関係」だなどとは一言も言っていない。むしろユングが基礎になっていると言っている。ただこの論争で論点になっている問題については「直接の関係はない」と言っただけである。

 要するに、私とユングの関係について、何も知らなかった。私の著作を読んだことがないにもかかわらず、「ユング主義(の、林氏オリジナルの解釈)」が「前提である」と勝手に想像し、その間違った理解を指摘されて素直に認めればいいのに、下手に頑張ったので、ますます深みにはまり、無知をさらけ出すことになった、といったところだろう。

 最後に、何度聞いても答えがないので、もう一度質問する。私のことを「亜流ユング主義者」と言った根拠を答えてもらいたい。これは学者として絶対に許すことのできない言葉だからである。

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