フェミニズム

 

29 (2-2)幼稚で非良心的な学問の方法 ( macska への反論 1-2)

        (平成18年1月19日初出)

 macska が早速反論を出した。急いで出したせいか、もともと能力がないせいか、穴だらけの杜撰な議論である。

 せめて私が出した宿題、拙著の中の、「文化的性差の積極的肯定的意味」に関する箇所だけでもよく読んでから反論を書いてほしかったと思う。

 生得的性差と文化的性差の関係については、この者が最初の題名にもしている核心的な問題のはずである。とくに「ジェンダーの必要性」「二項対立の必要性」「男性文化と女性文化への分化の必要性」についての部分をよく勉強してもらいたい。

 さて、今回の macska の反論を読んでよく分かったが、この者は論争に勝つためのテクニックという点からのみ見ると、なかなかに巧妙である。しかし惜しむらくは内容が伴っていない。とくに学問の基本がまるでできていないし、方法論への理解があまりにも幼稚である。それらの点を順次、指摘していこう。

 

生得的性差と文化的性差の関係について

 第一に、肝心の生得的性差と文化的性差の関係に関する、最も大切な論点から始めよう。

性自認が生まれつきのものであるならば、よほど激しい洗脳教育をやったならともかく、男女の区別を特に付けないくらいのことで性自認に問題が発生するわけがないではないかというのがわたしの指摘。

 今までと同じことを繰り返している。何度説明しても分からない人である。この者は「性自認は生まれつきのものである」ということと「教育によっては性自認に問題が起きる」ということとが、反対のことを言っている、または矛盾していると、まだ思い込んでいる。

 私がわざわざ母性本能とのアナロジーによって説明したことが理解できないのか、理解したくないのか、その点についてはまったく無視している。

 私は「性自認は生まれつきのものである」からこそ、「間違った教育によって性自認に混乱が起きる」と言っているのである。

 「教育によっては性自認に問題が起きる」とは、「性自認が変わる」「逆になる」という意味ではない。教育によって性自認は変わらない。だからこそ、性自認を曖昧にするようなプレッシャーを加えると、子供たちの心の発達が撹乱され、歪められるのだ。教育によって変わってしまうのなら、混乱や困惑は生じない。男女の区別を否定するからこそ、アイデンティティーにひずみや歪みが生ずるのである。

 

日本の現実を直視せよ

 「洗脳教育でもなされない限り」と言うが、macska が取り上げたコラムを私が書いた時点ではまさに「洗脳教育」とも言える教育がなされていたのである(もちろん今でも、やや歯止めがかかり出したとはいえ、依然として盛んになされている)。

  macska は

どうして「混合名簿などのまぜこぜ教育」をした程度でそんなに恐ろしい被害が起きると言えるのか、きちんと釈明してみたらどう?

と言っている。

 この者は「混合名簿などのまぜこぜ教育」(性差否定教育)のすさまじい実態と程度を十分に知らないようだ。

 ジェンダーフリー(現場では事実上「性差否定」と受け取られてきた)という根本的な思想によって、男女の違いがあるものはことごとく槍玉にあげられ、そこから混合名簿、男女統一「さん」づけ、男女統一の制服・体育着、男女混合保健・男女密着体育(組体操、人間椅子、騎馬合戦)・身体測定、男女同室宿泊、性別役割意識を植え付けるとして童話の排除、あるいはストーリーの改変、家庭科、現代社会、倫理、政治経済、国語等の教科書におけるジェンダーフリーの推奨、さらに教師の自選教材によるジェンダーフリー授業などが、まさに歯止め無く次々と生まれていたのである。端午の節句や雛祭りの否定、「男らしさ」「女らしさ」の否定など、男女を分けるものは次から次へと槍玉にあげられた。これぞまさしく「生まれつきの性向に反する」洗脳教育でなくて何であろうか。

 まさに男女の区別を徹底して、あらゆる教科で、さらには課外活動の機会まで捉えて否定していくのである。とくに「ジェンダーチェックリスト」を作ってやらせ、日々の生活において男女が区別されていることをすべて悪と教える。これらの実態は今ではいろいろな本で暴露されている。また自民党のプロジェクト・チームの報告書にもきわめて多くの事例が集められている。私の『家族を蔑む人々』でもほんの一部だが紹介している。

 こうした性差否定のシャワーを常時あびせられていたら、性自認の混乱を起こしたり、異性に対する嫌悪感がつのったり、逆に異性に対する健全な距離感を喪失したりと、多くの弊害が生ずる危険があると私は警告しているのである。

 どうやら macska は、こうした日本の現状をほとんど知らないようだ。なにやら月の世界の住人と議論している錯覚に襲われる。学者ならまずなによりも日本の現状について知る・調べるべきである。我々は日本の現実について議論しているのだから。

 この者は「男女の区別を特に付けないくらいのことで」とか、「混合名簿くらいで」と、ことさらに軽く捉えたいようだが、「混合名簿」に象徴されている性差否定の原理が、子供たちの自我の形成、アイデンティティの形成に混乱を引き起すのである。男女の違いが明確にあるのに「ない」とされることもまた性自認に対する圧迫であり、混乱を起こす危険があると私は言っているのである。

 macska が最初に取り上げたコラムにおいて、私は「予想される障害は多岐にわたり、深刻である」と述べ、その中に「心理的性同一性障害」ばかりか、多くの障害の可能性を指摘していた。

 今でこそ批判が強くなって歯止めがかかりつつあるし、政府の基本計画から「ジェンダーフリー」の用語が排除されたが、当時はじつに嵐のようなジェンダーフリー行政・教育が進められていたのである。私は当時、そうした偏った教育によって、後天的・心理的な障害が起こりうる危険性について警告したのである。

 

「先天的」「後天的」という分類法について

 私が言わんとした最も大切なこと、すなわち「生得的な傾向と反対のことを強制すると弊害が起こりうる」という問題については、依然として macska は真摯に立ち向かっていない。それどころか、この者は私の論の外見的な矛盾だとか、「性同一性障害」の概念についての揚げ足取りに執着している。

 私が提起した「先天的」「後天的」という分類法は、現代の精神医学の関心や発想からはまず出てこないものである。なぜなら、精神医学は目の前にある疾患を診断し治療するという関心を強くもっており(それはそれで必要だが)、そのために症状を整理し確認するための理念型としての「診断基準」をできるだけ明確にしようとする。そこには予防医学に当たる視点や発想はほとんど入り込む余地がない(本当ならば存在しなければならないのだが、現実にはほとんど存在していない)。

 それに対して、私の関心と発想は、そうした症状が出現しないようにするにはどうしたらよいかという点に置かれている。その立場からは、症状が生得的か後天的かという区別は非常に大切な区別となる。というのは「先天的」と「後天的」とでは、予防の仕方がまるで異なるからである。すなわち「性同一性障害」を「先天的」か「後天的」かで区別する分類法は決して「珍説」などではなく、「性同一性障害」の成立の仕方、つまり原因に着目した分類法なのである。もちろん私がその分類を見事に十全にやっているとは言わない。大切なのはそういう試みがどういう意義があるのかという点である。

 要するに、この分類法をなぜ私が持ち出したか、というよりなぜ「後天的」な症状に注目したのか、という原点に立ち戻って考えなければならない。すなわちある症状群を、「成立の仕方」に焦点を合わせて「先天的」「後天的」と分類するという発想は、そもそもジェンダーフリー教育が、その「成立」に関係してしまうのではないか、という危惧と警告の意味を持っていたのである。

 

「診断基準」は絶対的権威ではない

 学問の目的・方法・概念のあり方は、主体の「問い」・問題意識によって決まってくる。こういう方法論上の問題を macska はまったく意識していない。方法論が大切だという意識はみじんもないのではないか。そんなものは論争のテクニックの前に軽々と無視されてしまう。だから目的も方法論も異なるものを安易に比べることはできないという問題も、まったく理解されないのである。

  macska は、私の分類法を否定し、「一般的でない珍説」だということを証明するために、学問の目的が大きく異なる体系(精神医学の診断基準)を持ち出してきた。つまり「すりかえ」であるが、ただ「すりかえ」だと言っただけでは、私がこの論点から逃げていると思われるので、この者が設定した土俵の中に敢えて入ってみよう。

  macska は「この問題でわたしに絡むなんて、ホントにいい度胸してるよねー」とおっしゃるので、どこのどんな偉い先生なのか(本当に自信があってハッタリでないのなら、仮名の蔭に隠れて議論しないで堂々と本名と身分を明かしたらどうか)、どんな立派なご高説が聞けるかと思ったら、なんとDSM-IV(アメリカ精神医学会による診断基準)が引用してあるだけである。そんなことは、偉い大先生でなくても、インターネットで検索すればいくらでも引用することができる。ただし、それを引用したとたんに、macska は読者を「すりかえ」のテクニックにはめているのである。

 macska 大先生の論旨はこうである。その「診断基準」には、私の分類概念の「先天的」「後天的」という言葉は出てこない。したがってそれは一般的でないどころか「珍説」である。つまり私が「macska は後天的な性同一性障害について知らなかったのだろう」と言っているが、私が言っている「後天的な性同一性障害」はDSM-IVによれば「性同一性障害」の中には入っていない、と主張している。

 このように目的の異なる概念装置同士を同じ平面で比較すること自体がそもそも無理なことをしているという自覚がない。一方を基準にすれば他方はバカのように見える。用語さえ存在しないということになる。しかし macska が持ち出している「診断基準」というものは、唯一でもなければ絶対でもないのである。その絶対でないものを絶対の権威のようにして、それで他を裁断するという方法を取っているのである。

 すなわち macska が引用しているDSM-IVは、いくつもある診断基準のうちの一つにすぎない。診断基準はいくつもあり、しかもそれぞれが随時改正されている。その中から、macska は自分に都合のよいもの(私を否定するのに都合のよいもの)「だけ」を引き合いに出したのである。こういう議論の仕方は論争のテクニックとしては巧妙かもしれないが、学問的良心に反したやり方である。

 自分に都合のよいものを選んでよいというのであれば、私もやってみよう。DSM と同じくらい有名な ICD-10(WHO診断基準)にはこう書かれている。

F64.2 小児期の性同一性障害 Gender identity disorder of childhood

・女性の場合には、

A.少女であることについての持続的で強い苦悩と、少年でありたいという欲求の表明(単に、文化的に少年である方が有利だからというだけの欲求ではなく)、または自分が少年であるという主張。

B.つぎの(1)・(2)のいずれかがあること。

(1)あたりまえの女らしい服装を明らかに持続的に嫌悪し、型どおりの男らしい服装、例えば少年の下着や他のアクセサリーを着用すると言い張る。

(2)女性の解剖学的構造を持続的に否認する。それは次のうちの少なくとも1項に示される。

 (a)自分にはペニスがある、またはペニスが生えてくるだろうという主張。

 (b)座った姿勢での排尿の拒絶。

 (c)乳房の成長や月経を望んでいないという主張。

C.思春期にはまだ入っていないこと。

D.この障害は、少なくとも6ヶ月存在していること。

・男性の場合には、

A.少年であることについての持続的で強い苦悩と、少女でありたいという強い欲求、またはより稀には、自分が少女であるという主張。

B.次の(1)・(2)のいずれかがあること。

(1)女性の定型的な行動に心を奪われる。これは女性の服を着たり、女装したりすることを好むこと、あるいは少女のゲームや遊戯に参加することに強い欲望をもつ一方、男性の定型的な玩具やゲーム、 活動を拒絶することで示される。

(2)男性の解剖学的な構造を持続的に否認する。それは次の主張の繰り返しのうちの少なくとも1項に示される。

 (a)自分は成長して女になるであろう(単に役割においてではなく)。

 (b)自分のペニスや睾丸が嫌だ、または消えてなくなるだろう。

 (c)ペニスや睾丸はないほうが良い。

C.思春期にはまだ入っていないこと。

D.この障害は、少なくとも6ヶ月存在していること。

 見られるように、これに当たる症状ならば、後天的・心理的に生じうるだろう。また macska が引き合いに出しているDSM-IVのように「性自認が逆転している」ということに必ずしも拘泥していない。これなら私の「性自認に混乱が生じている」という「後天的・心理的性同一性障害」の概念とも矛盾しない。問題は混乱の程度を臨床の場でどう判断するかである。

  macska はたった一つの基準を持ち出して、それと違うというだけで私の概念規定が無効になるかのように言っているにすぎない。別のものがあるのに、一つだけしか引用しないのは学問的良心に反する行為である。大言壮語するほどの大専門家ならば、もちろん ICD のことも知っているはずだし、論争に勝つために専門知識を党派的に使ったりはしないはずである。この問題に関する macska のやり方は、とうてい専門家のそれではないし、学問に携わる人間の態度ではない。恥ずかしくて本名を出せないはずである。

 以上、重要な問題について指摘した。ただし、それ以外にも方法論についての幼稚な誤りがいくつか見られるので、老婆心ながら忠告の意味で指摘しておく。

 

概念と現実の区別もできない幼稚な理解力

 第一は概念と実際のケースが区別できていない、つまり方法論についての無理解に関すること。

あのー、ちょっといいですか? 「この者は〜区別もできていないらしい」と言っておきながら、最後には「実際にはこのように截然と区別できない場合が多い」だなんて、じゃあ一体何が言いたいわけですか? 一人でやっててくださいって。

 どうしてこういう程度の低いことを恥ずかしげもなく公表できるのか。学問の基本のキもできていない。方法論の初歩も分かっていない。私の最初の「この者は〜区別もできていないらしい」というのは「概念としての違いが分かっていない」という意味であり、次の文章は「具体的なケースでは截然と区別できない場合が多い」という意味である。概念としての区別は明確でなければならないが、実際の場では中間形態などいくらもある、ということである。

 私がわざわざウェーバーの「理念型」という言葉を使っているのに、理解できないとは困ったものである。「理念型」とは、「純粋概念」であり、現実の具体物がその「純粋概念」からどれくらい離れているか、どの位置にあるかを明らかにするための「索出手段」である。例えば両極端の純粋型があれば、その中間のものも、何と何の中間かが分かるのである。

 こんな簡単なことは中学生でも分かる程度のことである。「じゃあ一体何が言いたいわけですか? 」などとヒステリーを起こすのは、あまりにみっともない、自分のバカさ加減をまき散らしているようなもの、今後は気をつけた方がいい。

 

一知半解どころか、何も知らなかった

 第二は一知半解のユング知識どころか、何も知らなかったことが分かったということ。

 私が「一知半解のユング知識」で物を言うのはやめなさいと言ったのに対して、「PHP研究所」の人名事典を根拠に持ち出した(急いで検索したのか ? )。

 その記述をもとに、この者は「「父性」と「母性」のバランスが必要であるという議論は明らかにユング主義を基本にしている」と書いている。「明らかに」と言うが、根拠はこの人名事典しかあげられていない。

 人名事典を根拠にすること自体、恥ずかしいことだが、それも自分に都合のよいものだけ一つ選ぶところが、この者の非良心的な学問的態度をよく表している。

 本来ならば、一方ではユングの学説についてよく勉強していること、他方で私の『父性の復権』『母性の復権』等を読んでいること、この二つのことをやった上で初めて、両者の関係について論ずることができるはず。少なくとも私の著作を根拠に持ち出したまえ。ついでに「亜流ユング主義者」と言った根拠も示すべきである。

 他人の学問について批評する場合には、相手の基本的な著作くらいは読んでからするのが基本中の基本である。

 

「ユングでなければ根拠は何か」に答える

 私がジェンダー問題や「父性」「母性」についての私の理論が「ユングとは直接関係ない」と述べたことに関して、「ユングでなければ根拠は何か」と、この者は質問している。秘密にする必要もないので答えることにしよう。

 私の学問はこれまで研究してきた多くの学問・思想の集大成である。誰か一人の思想家や学者にだけ影響を受けたものではない。もちろんウェーバーやユングはその中でもとくに重要な基礎的位置を占めている。

 ジェンダー論や、ジェンダーフリー教育の弊害について述べるときに、基礎になっているのはエリクソンの自我アイデンティティーの理論である。アイデンティティー形成のプロセスにおいて、私は男の子は男性への、女の子は女性への同一化がきわめて重要だと考えている。つまり男性であるか女性であるかというアイデンティティーの獲得は、自我の確立にとって基礎的なものと理解している。(『家族を蔑む人々』の「アイデンティティー獲得にとっての二項対立の必要性」を参照のこと)

 したがって、この基礎を壊したり撹乱させたりする要因は、自我アイデンティティーにとってきわめて危険なものと考えている。この知見は、単に理論的な研究のみによって得られたのではなく、20年以上にわたる私の心理療法の臨床経験によっても裏付けられている。

 

結論

 この論争を通じて明らかになった macska の欠陥は、

1 生得的基盤と後天的発達とが無関係の別々のものと思い込んでいたので、両者の関係いかんという視点がなかった点(だから両者の関係について考察している私を「矛盾」だと間違って非難した)、

2 「性同一性障害」といったら必ず「性自認が逆になっている」先天的なもののみと思い込んでいた点、

3 私の議論を「子供たちの心の発達の歪み」という全体的な視点から理解しようとしないで部分的な用語の問題に矮小化した点、

4 ジェンダーフリー教育の実態を見ようとしていない(実体を知らないまま弊害を過小評価している)点などである。

 これらは相互に密接に関連している。例えば、一方では「性同一性障害」を先天的で且つ「性自認が逆になっている」と理解しておいて、他方ではジェンダーフリー教育を「混合名簿くらい」と過小評価しているので、結論として「混合名簿くらいで性同一性障害になるわけがない」と、いかにも私がバカなことを言っているように思い込んでしまったのである。

 それらの欠陥の根底には、学問方法論に関する幼稚な理解、ないしは無理解が横たわっている。これは物事を客観的に見る能力(学問の基本)の欠如とも言える。結論として言えるのは、この者は抽象的な思考能力と学問的良心を欠いており、学者としては失格ということである。

 (次回は「双子の症例」(ブレンダ事例)とジェンダー概念の関係について論ずる。)

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