フェミニズム  

34 「フェミナチを監視する掲示板」で正体を表わした「モデルネ」について

        (平成16年12月29日初出)

   フェミニストの本質を表した「モデルネ」の支離滅裂・右往左往

        (平成17年1月6日加筆)

 

 「フェミナチを監視する掲示板」をときどき覗いている。なかなか有益な議論がある。もちろん掲示板という性質上、「あらし」目的の下品な罵倒もあるし、トラブルもあるようだが、実証的かつ理性的な良質の議論もなされている。年中無休で掲示板の秩序を維持する管理人さんのご苦労は計り知れない。本当に頭の下がる思いだ。

 その中で以前から気になっていたのが、「モデルネ」と名乗る者の発言である。この「モデルネ」、どうもよほど私のことが嫌いらしい。私の意見が紹介されると必ずといっていいほどに出てきて、ケチをつけたり揚げ足取りをする。

 

「モデルネ」は親フェミニズムなり

 私はこの者がフェミニズムに対して親和的であり、本質的にフェミニストであると見当をつけていた。上野千鶴子氏に対しても強い親近感を表明していたが、とくに混合名簿をめぐる今回の書き込みで確信が持てた。

 今までの書き込みを読む限り、大学で教えていることを「売り」にしており、カントをはじめ西洋近代哲学の専門家らしい。15歳のころからベ平連運動をやっていたというから、年齢は50代、身分は教授であろう。世に実名を出して執筆活動を行っている学者が、なぜわざわざハンドルネームで掲示板に書き込むのか。実名では書けない動機を持っているからとしか考えられない。

 じつはこの者は、「隠した動機」を満足させるために、学者としての経歴の中で培ったいんちき弁論術を、この「フェミナチ掲示板」の中で駆使しているのである。「隠した動機」とは、一つはフェミニズムへの援護射撃。二つ目は私への個人的な反感と攻撃。今回の発言(12月28日)には、この二つの動機がはっきりと出ている。この者はこう書いている。

 林道義氏のサイトからの引用、読みましたが、なぜ男女混合名簿が悪いのか、その理由が書いてありませんね。(中略)  それにしても、学校の名簿が男女別でなければならない理由が分りません。諸外国はどうなのでしょう。男女混合名簿が「悪い」という理由を示さなければ、林氏の主張はまったく説得力がありません。どなたか、あるいは林さん自身でもけっこうですが、なぜ混合名簿がいけないのか、「禁止」しなければならないほどのものなのか、その理由をご教示願えませんか。名簿なんて、男女別あってよし、混合あってよし、それぞれの現場で使い勝手のよいものを自由に使えばよいでしょうに。林氏は、なぜこれほどまでに「力み返った」物言いをなさるのでしょう? とても変な感じがしました。

 とぼけるのもいい加減にしろと言いたい。長いあいだ「フェミナチ掲示板」の常連で、いろいろな議論に接してきた者が、今さら「どうして混合名簿が悪いのか分からない」とよくも恥ずかしげもなく言えたものである。だいたい「林さん自身でもけっこうですが」とは何事か。学者が学者に「ご教示」を願う時に、自分は匿名のままだとは、無礼極まりない。この者には礼儀の感覚というものがないようだ。

 「なぜ男女混合名簿が悪いのか、その理由が書いてありませんね」と思ったら、「ご教示」など願わずに私のHPを見てみればいいではないか。本当に知りたいと思えば、学者ならその程度の労を惜しむはずはない。事実、私は自らのHPで混合名簿がなぜ悪いのか、繰り返し述べている。モデルネは、私が「混合名簿の悪い理由」を述べないで、ただ「悪い」と「力み返って」いると言いたいのだろう。いや自分自身がそう思いこみたいのであろう。

 「よく調べてから物を言え」とだけ言えばいいはずだが、他の読者のためにも、混合名簿(一般に男女をまぜこぜにすること)の害毒について論じている箇所を示しておく。要するに一言で言えば、発達心理学上の問題、アイデンティティー確立の上で問題があるということである。

「教育」の中の

 8 「教育コラム」の中の

(1)ジェンダーフリーの害毒

(9)男女密着教育の危険

(12)男女混合名簿の落とし穴

 および

 9 警告・ジェンダーフリー教育の害毒

 15 性差否定(ジェンダーフリー)はなぜ悪いか

 私はこれらをふまえて書いているのである。私のHPの読者なら、昨日今日初めてやってきた人以外は、先刻承知のはずである。

 モデルネは、これらを読んだ上で、実名を出して、私に対して堂々と正面から意見を言うべきである。言っておくが、私は匿名者との論争はしない。匿名の掲示板でこそこそと悪口を書くのではなく、正面切って実名で論争をしたまえ。掲示板を使う場合にも、私との論争をするときには実名を出してやりたまえ。

 モデルネが親フェミニズムであるということは、次のような言い方の中にも表れている。

 名簿なんて、男女別あってよし、混合あってよし、それぞれの現場で使い勝手のよいものを自由に使えばよいでしょうに。

 こういう言い方は、フェミニストたちが自分達の「性差否定」という動機を隠して、「どっちだっていいじゃないですか」という言い方をするのとよく似ている。モデルネの発想はフェミニストそのものか、少なくとも非常に近い。

 

「力み返った」物言い?

 林氏は、なぜこれほどまでに「力み返った」物言いをなさるのでしょう?

 それから、あれは林さんの「文体の癖」なのですか。この板で紹介されるたびに彼の「力み返った」感じに違和感をもったのですが、「文体」なら仕方がないですね(^o^)。

 彼は以前、私の意見が紹介されたときにも「林さんらしい」というコメントをしていた。私の上野千鶴子批判に対して「ま、林さんらしいね・・・」とからかうような題名で、「まあ、林さんのいかにも言いそうな予想通りのコメントです」と書いている。どこがどう「らしい」のか言わない。「らしい」というのは褒め言葉としても使われるが、彼の場合は相手を見下し自分の優越を示すために「予想どおり」と言っている。相手を貶めたい動機を持っている人間がよくやる「物言い」である。

 今回の「力み返った物言い」という批評にも、悪意がにじみ出ている。「力み返った」という言葉は「必要以上にりきむ。ひどく強がる」[広辞苑第五版]という意味である。野球にたとえれば、私は「正面から堂々とストレート勝負をする速球投手」である。小手先細工は使わない。ほかにも「変化球投手」「横投げ投手」というのもあるが、いずれも正面から堂々と勝負するフェアなタイプである。カーブは小手先細工ではないし卑怯でもない。ところが世の中には卑怯なことをする奴もいる。「隠し球(だま)」という手である。このモデルネは卑怯だという点では「隠し球」を使う野球選手に似ている。球を隠すかわりに自分を隠して他人を貶めようとする。しかも正面切って批判をしないで、言葉尻をつかまえた揚げ足取りや、相手の権威を落とすようなコメントを一言付け加える。最も卑怯なタイプである。

 ここで卑怯な言い逃れをさせないために、断っておくが、「掲示板では匿名で批判をすることは許されている」という言い訳はこの場合には当てはまらない。私は表面上のルール違反を咎めているのではなく、学者としての品位とかモラル・マナーを咎めているからである。

 

典型的なフェ理屈によって私がフェ理屈屋にされてしまった

 それだけではない。モデルネは次のようなフェ理屈をこねくりまわしている。

 林道義氏の文章をもう一度読み返してみて、よく理解できない箇所があります。

>(1)そもそも「ジェンダーフリーに基づかない男女混合名簿」などというものはありえないのである。

>(2)してやられたのである。「ジェンダーフリーに基づかない」という限定をつければ、「ジェンダーフリーに基づいているかいないか」は証明のしようがないので、全部許したと同じになってしまう。

(2)で、「ジェンダーフリーに基づいているかいないかは証明のしようがないので」と言っているのに、(1)では、「ジェンダーフリーに基づかない男女混合名簿などというものはありえない」と言っていますね。林さんは、正しいかどうか「証明のしようがない」命題を、なぜ正しいものとして主張することができるのでしょうか? 自分で不可能だと言っている命題を、自分で主張されている。こういうのを、フェ理屈というのではないか。どなたかご教示をお願いいたします。

 フェ理屈を批判している私が自らフェ理屈を使っているという皮肉のつもりであろう。この者、本当に頭が悪くて相手の言っていることが理解できていないのか、それとも頭が悪いふりをして相手を貶めたいのか。前者なら資質の点で学者としては落第であるし、後者なら道徳的に学者として落第である。

 (2)の方の「ジェンダーフリーに基づいているかいないかは証明のしようがない」というのは、「ジェンダーフリーに基づいた混合名簿廃止」という通達を出した東京都教育委員会にとって、現場から「ジェンダーフリーに基づいていません」と言われてしまえば「ジェンダーフリーに基づいているかいないかは証明のしようがない」という意味である。「教育委員会」は事実関係を判定のしようがないという意味である。それをモデルネは「私」が正しいかどうかを証明できないという意味に完全にすりかえている。典型的なフェ理屈である。

 私は混合名簿がジェンダーフリー思想に基づいていることを、前記の論考の中で論じている。誰が見ても証明しつくしているとまでは言わないが、証明しようとはしている。とにかくジェンダーフリー思想が蔓延してくる以前には混合名簿はなかったし、ジェンダーフリー思想家たちが熱心に進めた運動(国立市を発祥とする)なのである。私自身が「証明できません」などとは言っていないのである。

 私が自分では証明不可能だと言ったことを、別のところでは正しいと主張しているのなら矛盾である。モデルネは鬼の首でも取ったつもりなのだろうが、こういうのを「すりかえ」と言う。くだらない揚げ足取りであり、まさにフェ理屈の典型である。モデルネは自らフェ理屈を使って、フェミニストそのものであるという自らの正体をさらしたのである。

 最後にもう一度念を押しておくが、私に対する反論をしたいなら、実名で堂々と真正面から答えたまえ。自信家であるところを見ると、何か賞でももらったとか、君も少しは名の知れた学者ではないのか。いつまでも匿名性の蔭に隠れて他人の悪口を言うのは、学者として恥ずべきことである。

 

(平成17年1月6日加筆)

フェミニストの本質を表した「モデルネ」の支離滅裂・右往左往

 上記の「モデルネ」批判について、「フェミナチを監視する掲示板」でも議論が起きている。

 そこでの「モデルネ」の言説を見ていると、フェミニストの顕著な特徴である「ああ言えばこう言う」式の「フェ理屈」すなわち「論点すりかえ」「別の話題への逃走」「下手な自己弁護」が顕著に認められる。それらを繰り返していると、相互に矛盾してきて、全体としてみると支離滅裂になっており、逃げまどって右往左往している感じは哀れである。

 しかし、哀れだといって同情するわけにはいかない。「モデルネ」の言動に典型的に現れているフェ理屈が、世間を欺き、非常識な「性差否定」等の悪性フェミニズムを弁護する役割を担っているからである。

 「モデルネ」のごまかしを明らかにして、フェミニストに特徴的なフェ理屈を見抜く参考に供したい。私が言いたいことは、フェミニスト学者の本質(の一つ)が、フェ理屈によるごまかし言論によって悪性のイデオロギーを弁護するところにあるということである。その曲学阿世の典型を「モデルネ」の言説が示しているのである。

 

逃げまどい右往左往する「モデルネ」

 「モデルネ」の矛盾は誰が見ても明白なので、多くの人から批判を受けている。その批判を逃れようと、いろいろと逃げ口上を言っている様は、あたふたと逃げまどっているようである。しかし応答すればするほど、さらに矛盾と支離滅裂の上塗りを繰り返している。ぶざま、と言うべきだ。例えば、こうである。

1 一方で「匿名の掲示板」は「無責任でもいいし嘘を言ってもいいので自由でいい」「それが醍醐味だ」という意味のことを言っておいて、他方では「匿名掲示板は、責任ある言論を作り出すことができる」と、それこそ無責任な保証をしている。

2 権威などまるで否定しているようなことを言ったかと思うと、「産経新聞の幹部には知人もいます。林さんと私が何らかメディアで対談や対論ができたら、どんなに楽しくまた有意義だろうかと思います。今すぐには無理でしょうが、そのような機会を作れるように、私の方でも努力してみたいと思います」と書く。「モデルネ」が「努力する」と、どこかのメディアで対談が実現しそうなことを言う。「そんな実力があるのか、たいした大物なのだ」と思わせる。こういうのを「権威をひけらかす」と言うのである。

3 「正面勝負」をしていると言いながら、「私にとっての勝負とは」「ズレと亀裂を作り出して、我々自身の硬直した『思い込み』を相対化すること。これが私にとって『正面勝負』なんです」と言う。つまり誰かになんらかのケチをつければ、それで「終わり」。「私にとって」「戦いはもう終りました」となる。「私が上のレスで、林さんの主張に反論していないことはお分かりでしょう」となる。あきれるのは、「反論しない」と言いながら、いつまでもだらだらと反論していることである。

 きりがないので、例示はこのへんでやめよう。これほど相互に矛盾した支離滅裂のどこが「匿名掲示板が作り出す責任ある言論」なのか。ただの「ちゃらんぽらん」ではないか。そう批判されると、この者は「自分は道化の役目を演じているのだ」と、「道化」へと逃げ込む。なるほど「道化」ならば、どんなにバカなことを言おうが、支離滅裂であろうが、全ては許される。だが、それも見事に失敗している。この者は「道化」ほど徹底して自らをバカにまで貶めることもできなければ、批判力の点でも「道化」の域に達していないからである。

 

「道化」ほどにも立派でない「モデルネ」

 「モデルネ」は自らを「道化」と言っているが、そんな立派なものではない。

 「道化」とは、愚かに見せかけながら、鋭い批判や警世の句を吐く存在である。自分の権威も賢さも自ら否定し、身を最下位に落としめながら、すべての価値を逆転して見せるのが「道化」である。「モデルネ」のように自分の正当化や権威にこだわる者が、どうして「道化」になりえようか。

 それどころか、「モデルネ」は勝負にこだわる。「これが自分にとっての正面勝負だ」と強がる。どんなスタイルにせよ、道化は正面勝負などしないものである。この者は「道化」の本当の意味を分かっていない。

 「モデルネ」は「道化」とは正反対の人格である。「道化」は愚かなことを言っているようで、権威や価値を逆転させる。しかし「モデルネ」は権威をちらつかせながら愚かなことを言う。まるで逆である。真実を露呈させるかわりに、真実を隠し、頭のよさ(単なる回転の速さにすぎないが)をごまかしやすりかえのために浪費する。

 「モデルネ」が「道化」に逃げ込んだのは、じつは「自己矛盾や負け」を認めないで済むため、そして最小限の権威を守るためである。姑息な人間である。「すべてを相対化する」としながらも全共闘ほどに徹底できない、道化ほどに自らを貶めることもできない、ただの「中途半端」にすぎない。

 

混合名簿の「本質論」は欺瞞

 しかし「モデルネ」が「フェミナチを監視する掲示板」でやっていることは、ただの「ちゃらんぽらん」「中途半端」ではない。明確な方向性をもった言論をも展開している。その方向性とは、フェミニズム批判者たちとその意見を貶めることである。

 この意図は、混合名簿をめぐる討論に明確に現れている。

 初めはこの者は「使い勝手」論に立脚していた。「混合名簿でも別名簿でもどっちでもいい」「ときに応じて便利な方を使えばいい」という論理であった。混合名簿がジェンダーフリーと無関係でないことは百も承知で、使い勝手の問題に矮小化していたのである。

 しかし、そのうち、「ジェンダーフリーを前提にしているから悪いのだ」と反論されると、「本質論」なるものを出してきた。言うことがくるくる変わるのは、ごまかし論理を考え出す頭の回転の速さだけで勝負している人間の特徴である。

 私が問いかけているのは、日本における男女混合名簿の導入の経過ではなく、本質論としての混合名簿の是非なのです。林氏の主張は、混合名簿一般を禁止せよというものですから、その主張が十分な説得力をもつためには、本質論のレベルで混合名簿の悪影響が実証される必要があります。

 世界中で混合名簿が昔から使用されているならば、その名簿ゆえに男女のアイデンティティの形成に悪影響があった、あるいは悪影響がありそうだ、という批判や混乱があったのかどうか。それを知りたいだけです。

 「林氏の主張は、混合名簿一般を禁止せよというもの」という、そもそもの前提が間違っているが、この者は間違いを承知で意図的に間違いを装っているとしか考えられない。頭の回転だけは早そうなので、そこまで頭が悪いとは考えられないからである。こういうのを「論敵の過度の一般化」と言う。ずるい論争の手法である。私は「日本での」「ジェンダーフリーと結びついた混合名簿」について一貫してその危険を訴えてきた。

 混合名簿一般が危険かどうかを、「本質論」として議論するのは無意味であり、ごまかしである。混合名簿の作用は、それを使う教師(学校)の態度(イデオロギー)や、学校全体として性別に対してどのような態度を取っているのか、各教科の教え方の中で男女をどのように扱っているのか、等々の具体的状況の中でしか作用しない。

 そもそも、具体的状況から切り離して、「混合名簿の本質は?」「作用は?」という問題設定をしても、その作用は本来実証も論証もできない性格の問題である。例えば、「混合名簿は児童生徒にどのような心理的影響を与えるか?」という問題設定をしても、現実的状況から切り離した場を設定して考えたり実験したりする(環境からの思想的影響を取り除いて研究する)ことはできないのである。そういう問題設定そのものが現実から眼をそらし、物事の真の本質を隠ぺいする働きをする。本来的に不可能な問題設定をして、そちらに誘うのは、欺瞞的な論争術である。問題設定そのものが欺瞞であり、じつに「モデルネ」らしい「すりかえ」である。

 「モデルネ」は「外国」ではどうかと、日本の現実から外国に眼を向けさせる。しかし外国に関しても同様に「本質論」は不可能かつ無意味なのである。「男女のアイデンティティの形成に悪影響を与えると言うなら、混合名簿をやってきた外国でも悪影響を与えているのか」という質問だが、それぞれの国で混合名簿がいかなる思想に基づいて導入されたのか、性差否定とどういう関係にあるのかが問題である。

 「モデルネ」が終始無視しているのは、悪影響を与えるのはジェンダーフリー(性差否定)であるということである。(本HPの「教育15」「性差否定(ジェンダーフリー)はなぜ悪いか」を見よ)。私は性差否定と結びついているから、混合名簿がアイデンティティ形成を阻害すると言っているのである。(日本ではフェミニストどもが必死になって結びつけようとしている! そもそも混合名簿の急速な普及は男女平等と性差否定思想の混同によって進められたのだ。)

 

 この例に見られるように、フェ理屈を駆使してフェミニズムを擁護し、フェミニズム批判者を貶めようとしているのが、「フェミナチを監視する掲示板」において「モデルネ」が一貫して取っている態度である。一見、学者らしい冷静で客観的な言い方をしているが、いざというときや批判されたときには、なりふりかまわずフェ理屈まるだしとなる。権力に媚びるのに学問をもってするのを曲学阿世の徒と言うが、厳密に言うとこの者はもっと程度が低くて、理屈(下手でも)を言う能力をもってフェミニズムに媚びている。まさに軽蔑すべき輩と言うべきである。

 私が暴露しないでも、この者の正体はすでに掲示板の中で十分にあばかれているが、私も非礼で見当はずれな批評を受けた者として、この者の偽物性を明らかにした次第である。

 

補論1 「非礼」について

 「モデルネは非礼である」という私の批判に対して、「モデルネ」は逆に私の方が非礼だと反論している。すなわち私が「モデルネ」に「氏」や「さん」をつけないのが非礼だと言うのである。

 ところで、「非礼」の件ですが、たとえば、私は「林」と呼び捨てにしてますか? 「林さん」か「林氏」と言っています。それに対して、林さんは私のことを、「モデルネ」って呼び捨てにしていませんか? こういうのを、普通の日本人の感覚では「非礼」と言うんではないでしょうか?

 自分に言われたことを相手にも言い返すというのがフェミニストの特徴だが、この批判は見当違いである。ハンドルネームと実名とを同等に置くという前提からして間違っている。もちろん掲示板の中で互いに対話をする場合には、ハンドルネームであっても相手に「さん」「氏」をつけるのは当然である。互いに場を同じくして対話をするのだし、対話をするにつれて相手に人格や人間性を感ずるようになればなおさらである。しかし、私は「モデルネ」とさしで討論・対話しているわけではない。掲示板の言説を外から観察して批評したのである。つまり「モデルネ」というのは私にとって記号にすぎない。詳しく言えば「モデルネと名乗っている者」となる。だからこそカッコつきにしてある(後半はわずらわしいのでカッコを省略してあるが)。もし「氏」や「さん」をつけてほしければ、実名を名乗ればよいのである。私は実名を名乗っている人を呼び捨てにしたことはない(犯罪者を除いて)。

 それよりも驚いたのは、「モデルネ」が「普通の日本人の感覚」を判断の基準として採用したことだ。しかも相手の「非礼」を批判している。「非礼はいけない」ということは認めているのだ。ならばあえて問おう。「普通の日本人の感覚」ならば、「混合名簿が悪い理由を知りたい」と相手に質問をして、相手が「ここに書いてある」と答えたのだから、それを読んで意見を言うのが礼儀ではないか。

 また「モデルネ」は、「この者」という言い方が「いかにも上から見下ろすような言葉」だと書いている。そのとおり。「いかにも」どころか、私ははっきりとこの者を見下しているのである。「見下げ果てた学者」だと思っているので、それを表明したのである。

 私の学者人生の中で、自分で調べれば簡単に分かることを自称学者が匿名で他の学者に「教えてくれ」と要求するケースは今まで見たことがない。また匿名の影に隠れて「ま、林さんらしいね・・・」と小馬鹿にしてみたり、「力み返った物言い」と悪口を言うような学者に出会ったのも初めてである。こうした無礼で卑怯な学者だから軽蔑の感情を表明したまでのことである。礼儀を欠いている者を見下すことを非礼とは言わない。

 

補論2 「感情的」と「感情表現」は違うということについて

 私に対して「感情的」であると批判する者たちがいるので、この問題についても一言述べておかなければならない。

 私が「感情的」だと言われているのは恐らく「モデルネ」の「非礼」を咎めている部分であろうと思われる。「非礼」を怒っているから「感情的」だと思われたのであろう。

 たしかに私は自分の感情を表明した。私が「非礼」だとか「名を名乗れ」と言ったのは、ルールに照らしてどうこういう話(論理的な世界の問題)ではなく、私の倫理観や礼儀の感覚からの発言である。要するに私の感覚・感情を表明した部分である。そこで次に問題になるのは、「人間は感情を表明してはいけないのか」「感情を表明することは恥ずかしいことか、常にマイナスと評価されることか」という点である。

 一般的に言って、自分の感情を述べるということは、それ自体決して悪いことではないし、場合によっては必要なときもある。例えば私は「寸評」の中で「北朝鮮の拉致に対して日本国民は怒れ」と呼びかけたこともあるくらいで、適切な感情を持ち表現することは大切なことである。例えば心理療法の場面では、感情を表せなかった人が感情を表したことがきっかけで、急速に好転することもある。また心理療法家はまったく感情を表さない方がいいかというと、場合によっては「怒り」などの感情を表した方がいい場合もある。

 感情というのは人間にとって大切なものである。たしかに感情が論理的思考の邪魔になる場合もある。しかし論理的思考にとってマイナスだからといって、人間にとって大切だということを否定してはならない。したがって感情を表明したということだけで、その人の落ち度だとかマイナスだと考えるのは間違いである。

 ただし、感情を表明する場合に、気をつけなければならないことがある。それは第一には「感情的」になってはいけないことと、第二に感情表現と論理的な主張を混合しないことである。その区別がつかなくなると、論理が感情によって歪まされることになる。「感情的」とか「感情に任せて」というのは、例えば「怒り」や「憎しみ」の感情に翻弄され、我を忘れて自己コントロールがきかなくなったり、そのために支離滅裂になったりする状態を言う。

 私の場合は、「非礼」とか「卑怯」という私の感じ方を述べたさいに、それを「感情的」に述べてはいないし、「感情に任せて」わめきちらしたわけでもない。単に感情を表現しただけの場合について「感情的」だと言い立てるのは、相手を不当に貶めたい不純な動機を持った者のすることである。

 私は、「モデルネ」に対して「非礼」「卑怯」だと指摘した感情表現の部分と、「モデルネ」の論理的・内容的な欠陥を指摘した部分をはっきりと分けて論じており、「感情的に」「感情に任せて」感情と論理をまぜこぜにするような特徴は示していない。したがって私に対して「感情的」と評するのは見当違いである。

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