フェミニズム批判

 

27 保育園は「子別れ」の「装置」?

   ──御用学者・根ケ山光一氏の仮面をはぐ

        (平成16年12月5日初出)

 

 御用学者と言えば、昔は権力に媚びへつらう学者のことだった。今の御用学者はフェミニズムにへつらう。するとどこの新聞でもテレビでも、すぐに使ってくれる。このごろの御用学者は巧妙になって、イデオロギー的な背景が分からないように、いかにも客観的に見える専門用語を使って煙(けむ)に巻きながら、偏ったイデオロギーをまきちらす。

 『産経新聞』平成16年11月30日の「こども」面の「新・赤ちゃん学 私の研究室から」というコラムに根ケ山光一氏(早稲田大学人間科学部教授)が「『子別れ』で保育園に注目」という文章を書いている。これがなんともあきれた「学術用語を使った保育園礼賛」なのである。今どきのフェミニズムに棹さす阿諛追従である。

 まず前書き。いかにも学問的に論じているように見せかけながら、さりげなくフェミニズムに媚びる見方をしのびこませる。

 このシリーズの担当も最終回となった。これまで、子育てを子別れとして見る視点を一貫して提示し、「母子」とそれをとりまくモノ環境の問題を主として取り扱ってきた。しかしマクロに見れば、分離は同時に、母・子のそれぞれが周囲の他者に接近することでもある。最後にそのことに触れておきたい。

 「子別れ」「分離」は「母・子のそれぞれが周囲の他者に接近することでもある」。この言い方にすでに悪しきフェミニズムをしのびこませている。「子別れ」「分離」は「子供の自立」を表現しているつもりらしいが、「自立」は決して「子供と別れる」ことではない。いくら相互に自立しても、親子は別れない方がいい。フェミニストの女性たちは「早く子供に手がかからなくなって外で活躍する」ことを切に望んでいるが、子供に対する物理的な世話が少なくなっても、心を離してはいけないし、「別れ」てはいけないのである。「子別れ」の行き着く先が福島瑞穂氏の「家族解散式」である。そんなに別れたいのなら、子供を産むな、と言いたい。

 次にもっともらしい「学問的な」伏線が敷かれる。

 子供が母親以外の他者に世話されることは「アロマザリング」といわれる。動物界で母親以外の血縁個体が子の世話を行うことは、それによって自分と血のつながった個体が増えるという意味で、その個体自身の繁殖上のメリットになると考えられている。その典型は「父親」であるし、高齢者の孫に対する愛情もそういう意味合いで解釈されうる。そしてそれらは結果的に、子別れの成立に大きく貢献している。

 母親以外の血縁者が子供の世話をするのは「良い」ことだというのは、一般的にはそのとおりだ、と思った人は、すでにして「ひっかかっている」のである。母親以外の人が関わるのがよいことだという場合に、母親が中心であることが必要なのかどうか、どういう意味で母親が中心でなければならないのか、といった問題意識が必要になるが、この人にはそうした問題意識が見られない。母親と周囲の人たちの比重という問題が消されているのである。それどころか、「子別れ」のためには、母親以外の人に世話されればされるほどいいというメッセージを潜入させている。「そこまで言うのはかんぐりだろう」と思った人は、以下を読めば決してかんぐりでないことが分かるだろう。

 そのこと自体重要なことであるが、それと同時に、私が特に注目したいのは、血縁のない人たちによって提供される「制度化された世話」のことである。いいかえると、ヒトの母子関係は血縁者のネットワークに開かれ、さらにそれをとりまくモノと非血縁者・専門家の構成するシステムに開かれているということなのである。

 いよいよ本題に近づいてきた。まず「母親以外の血縁者」が子育てに関わることは「いいこと」だと言っておいて、次には「モノと非血縁者・専門家の構成するシステム」に「開かれている」ことを「制度化された世話」と呼ぶ。つまり「血縁者」でなくてもいいのだと、範囲を広める。「専門家の構成するシステム」「開かれている」「制度化された」などという、いかにも客観的で学問的らしい、しかもプラスシンボルとして受け入れられる用語を多用する。そうしておいて、次に子育てが「専門機関」に取り巻かれていることを述べる。

 血縁のネットワークをとりまくシステムとしては、具体的には「ご近所」があり、さらにその外側に位置する「医療・保健」や「保育・教育」など、制度として子供を預かり、子のケアや治療を親に代わって行うことを託された専門機関の存在がある。

 なるほど「専門機関に取り巻かれていて任せることができれば安心だな」と思わせる。じつは医療でも保健衛生でも、教育でも、基本は親が行うものであり、専門機関は「親にかわって」行うのではなく、あくまでも中心は親であり、外部機関は親の中心的な「世話」を補うにすぎないのである。ところがこの筆者によると、医療なり保健なり教育の全部を親に代わって行うかのように思わせられる。「子別れのためには外部の機関に任せるのがよい。その外部の機関は充分に信頼のおける専門機関である」。こういう文脈である。ここまでが「学問的な」伏線。なかなか手がこんでいる。ここまで巧妙に「学問的な」用語で説かれると、そのカラクリは普通の人ではなかなか見破れない。以上の伏線のあとに、いよいよ本題が来る。

 ヒトの子育てと子別れは、子守や乳母、保育園や幼稚園、学校、病院など養育システムの入れ子構造で成り立っている。母親一人が育児の負担を一手にひきかぶっているのではないし、またそう考えるべきでもない。

 育児がいくつもの同心円から成り立っていることは当然である。ただし、その中心には母親が、そして父親と家族が存在していることが最も大切である。乳幼児期に母親の愛情が欠けると攻撃性が増大する。最近の極悪犯人のすべてにおいて母親の愛情が欠けていた(拙著『母性崩壊』その他)。その「母親が最も大切」だということは言われない。そして最後に結論がくる。

 最近私は、そういった子別れの一つの装置として、「保育園」という場に着目している。

 ついに現われた「保育園」! いろいろと周りくどく「学問的」な「もったい」をつけておいたのは、これを言うためだったのだ。

 とくに保育園と家庭を日常的に往来し、それらの場の連続性と断続性にさらされながらそれぞれの場で分離と再会を繰り返し、ダイナミックに行動の調節・適応を行っている子供のたくましい実像について、……研究を進めている。

 お見事 ! と言うべきか。巧みに美辞麗句をつらねて保育園というものを合理化・理想化している。「連続性と断続性にさらされながら分離と再会を繰り返す」「ダイナミックな」「調節・適応」「たくましい」「実像」 。こういうことを可能にしてくれるすばらしい「制度」が保育園なのだ そうである。こういうすばらしい制度に託して、母親はなるべく関わらないのが「子別れ」にとって理想的なのだというわけである。「たくましい」子供たちが「調節・適応」できないなどということは考えられていないらしい。乳幼児にとって母親の存在が最も大切な時期に全面的に母親から引き離すことのマイナス面についてもまったく無視している。

 一定のイデオロギーにそって、一定の結論に向かって、言語を総動員できる特殊な能力。社会主義国か戦時中の日本に生まれたら、寵児になっていただろう。

 「子別れ」という言葉を私は嫌いなので使わない。その代わりに「子供の自立」という言葉を使う。「子供の自立」が子育ての最終目標なのは当然だが、そのために必要なのはまず母親によって充分に可愛がられることだという最も大切なことを言わないで、ただ他人とまじわることが大切だということだけ言うのは、基本をぬきにして応用を最初にもってくるに等しい。御用学問の行き着く先は、こういう本末転倒になる、という見本である。

 こういうフェミニズム御用学者を『産経新聞』が使うのだから、困ったものである。というより、よほどしっかりと理論的に勉強しておかないと、まがいものを見破ることがいかに難しいかを示しているのかもしれない。

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