フェミニズム批判

9 エセ学問の害毒
  ──正高信男『ケータイを持ったサル』の差別感覚

        (平成15年11月23日初出)



 ひどく差別的な本が出た。専業主婦は「社会的かしこさ」において劣っているという結論である。
 その本とは正高信男『ケータイを持ったサル──「人間らしさ」の崩壊』(中公新書)である。
 ケータイを手放せない少年少女たち。ケータイでのコミュニケーションはサルのコミュニケーション方法にまで退化していると言う。こうした書き出しは、今どきの若者の風俗を嘆いている大人に受けそうである。
 それだけなら、それほど罪はない。今どきのケータイ世代の若者がサルなみのコミュニケーション能力しか持っていないという結論へと導く実証的な実験とやらにも多少の疑問は残るが、まあそれは見過ごすとしよう。しかしその若者たちが「関係できない症候群」に陥っている原因を探る段になると、とたんに方法論的疑問が山ほど出てくるのである。

専業主婦への差別を「科学的に」証明?

 著者は言う。若者がサルなみに退化した原因は「子供中心主義」にあり、それは「社会的かしこさ」の点で劣る専業主婦の子育ての特徴である、と。
 この結論だけ聞くと、ひどく差別的な内容に思える。思えるではなく、事実恐ろしく差別的な内容なのである。しかし著者はその結論を科学的実験によって証明できると豪語する。彼の論理に導かれていくと、必然的にこの差別的な結論に「科学的に」導かれてしまう。
 専業主婦は「社会的かしこさ」の点で劣っている、そういう専業主婦が唯一の生きがいとして「子供中心主義」で育てたから、サルなみの子供が出来上がったとされる。フェミニストが喜んで飛びつきそうな内容と結論である。
 しかし、学問方法論を専門にしてきた私の眼から見ると、この本は好意的に言っても「きわめて杜撰」な方法論によっているし、かんぐれば意図的な詐欺だと言えるような欺瞞的方法を使っている。もし著者が自分では気がつかないでやっているのなら、科学者の名に値しない愚か者ということになる。
 以下、この本のごまかし科学を暴露する。
 まずこの本の論理の流れを著者自身がまとめている箇所があるので引用しよう。

 (子供がある程度大きくなるまで母親が育児に専念すべきかどうかについては、水掛け論で結論が出ていないと述べた上で)「しかしながら面白いことに、母親が専業主婦であることが子どもにとって悪い影響を及ぼすか否かという議論は、ついぞ行われてこなかった!
 家に子どもとずっといてやることは、無条件によいことだとみなされてきた。その点で、本章で紹介した実験の結果には注目すべきものがある、と私は自負している。母親が外で働く機会を持たないなら、加齢に伴って早期に社会的かしこさを失う。それは、子どもとの信頼関係の形成を困難にする。おのずと、母親はモノで子の歓心を買おうとする。子がそこへつけ入る。
 結果として、子離れできない母親と、母親離れできない子どもの「カプセル状態」が誕生するのだ。時間が停止したかのような状態が、家庭内に生みだされる。」(p.146)


 こんな短い文章の中なのに、全部が間違いだと言いたいほどに出鱈目ばかりである。まるで「風が吹くと桶屋が儲かる」式のいい加減な推論を積み重ねた末に、母親が専業主婦でいると子供がサルなみに退化すると言っているのである。
 一つずつ吟味してみよう。

事実の間違いふたつ

 まず前半の二つの命題は、事実として間違っている。
 第一の命題「母親が専業主婦であることが子どもにとって悪い影響を及ぼすか否かという議論は、ついぞ行われてこなかった!」。どうしてこういう馬鹿なことを野放図に言えるのか、頭脳構造を疑う。フェミニストたちは昔から何度となく、「専業主婦は密着育児になり、ストレスがたまり、虐待に通ずるから(つまり子供に悪い影響を及ぼすから)、子供は保育所に預けて働け」と言い続けてきた(例を知りたいなら拙著『フェミニズムの害毒』と『母性崩壊』を見よ)。こういう議論をまったく一つも知らなかったとでも言うのであろうか。百歩譲って知らないのは仕方ないとして、何かの存在を否定するということは方法論的に不可能なことであるということを科学者が知らないというのは、決定的な欠陥である。よほど調べてみた上で「私が調べたかぎりでは見あたらなかった」と言うべきである。ところが彼は「ついぞ行われてこなかった!」とわざわざ「!」を付けて強調している。知りもしないし、調べてもいないのに、よくも断定できるものである。この杜撰な神経は科学者のものではない。
 第二の命題「家に子どもとずっといてやることは、無条件によいことだとみなされてきた」。これも大きな間違いである。母親が家にいてやることが子供にとっていかなる良い効果をもたらすかということは、なんの根拠もなく「無条件に」言われてきたことはまずなかった。少なくとも本に書かれているような主張は、それぞれに充分な理由をもって言われてきたのである。さしあたって同じ中公新書で出ている宮本健作『母と子の絆』と拙著の『母性の復権』ぐらいは、たとえ斜め読みでもいいから読んでみてほしかった。編集者も注意を促すくらいはしてほしかった。題名を見れば、その問題について書かれていることは見当がつくはず。科学的実験を自称している者が、こんな基本的手続きを欠いているとは、驚きである。
 さて、前置きはそのくらいにして、肝心の自慢の「実験」とやらを吟味してみよう。

詭弁につきものの三段論法

 正高氏の三段論法は次の様な構造を持っている。
1 母親が外で働く機会を持たないならば、加齢に伴って早期に社会的かしこさを失う。
2 社会的かしこさを失うと、子供との信頼関係の形成が困難になる。
3 そうなると、「おのずと」母親はモノで子の歓心を買おうとする(人間というものは人の役に立っているという意識なしでは生きられないものだから)。
 (こうしてケータイでも何でも買って与えるので、子供はサルなみにまで退化するのだ、と推論は続く。)

 三段論法というのは、古代ギリシアのソフィストが用いた詭弁の手法であり、今まで私が暴露してきたように、フェミニストたちが多用するごまかしの手法(フェ理屈)である(『フェミニズムの害毒』p.58以下を参照)。とはいえ、たいていは一箇所だけにごまかしが潜んでいる。
 正高氏の三段論法もやはり欺瞞を内蔵している。しかし一箇所ではなく、三段のうちどの段階にも見られるのだから念が入っている。
 まず大前提「専業主婦は早期に社会的かしこさを失う」。大胆な結論である。差別だと批判されかねないこの結論を堂々と出すからには、それなりの根拠と自信があるからであろう。この三段論法の中で唯一実証的な実験を根拠にしている部分である。

詐欺に近いごまかし実験

 正高氏が「社会的かしこさ」を測ることができる実験だと大言壮語しているのは、「ウェーソンの四枚カード問題」である。これは言い換えれば「規則が守られているかどうかを確かめる」にはどうしたらいいかを問う実験である。
 具体的には、たとえば、「M」「E」「7」「4」のカードを見せて、この四枚のカードは、「どのカードに関しても、もし片面にアルファベットの母音が書いてあるならば、そのカードの裏面には偶数が書いてある」という規則が成立する、と説明する。
 ところで、この四枚のカードについて、「この規則が当てはまるかどうかを確かめるために、裏面を必ず見なければならないカードをすべて選んでください」と言う。正しく選べば「社会的かしこさ」がある、間違えると「社会的かしこさ」がないと判断されてしまう。
 これを20代と40代の社会人男性で調べたら、20代は70パーセントくらい、40代は50パーセントくらいの正答率であったそうである。私は60代の半ば。不正解であった。「社会的かしこさ」がないと診断されるのだろう。
 この結果を知らされただけで、私にはまず素朴な疑問が生じた。人間は年を取るにつれてボケるのは確かだ(とくに左脳の働きが鈍くなる)が、「社会的かしこさ」というのは60歳くらいまでは(人によっては65歳いや70歳までも)増大するか保持できるものではないかという疑問である。そうでないと、20歳の若造が最も賢くて、それ以後はだんだんバカになっていくことになる。20歳代で最高になるのは、頭の回転の速さと左脳の働きである。しかしそれは「社会的かしこさ」とは別物である。
 たとえば、私の知り合いの占い師は、相手の顔を見ただけで、どんなことで悩んでいるかたいていの見当がつくそうである。それを言い当てると、とたんに信用してくれて、あとはどんなアドバイスをしようが受け入れてくれるという。また知り合いの心理療法家も、患者に会ったとたんに、どんな悩みかだいたい分かるそうである。そういう人たちも、恐らくこの「ウェーソンの四枚カード問題」には落第するだろうと思う。
 (もちろん、このように「隠れた人格」を察知することだけが「社会的かしこさ」ではないが、この場合は正高氏の前提の範囲内で考えている。その前提のもとで考えたとしても)
 少なくとも私の「社会的かしこさ」と、この実験から得られた私の「社会的かしこさ」は比例していない。逆に、このテストで正解をした人でも、誰かが陰で犯罪を犯していることを見破れない人はたくさんいるだろう。
 ここまで言えば、この実験と結論の齟齬は明確であろう。この実験はせいぜい頭の回転が速くて正確かどうかを測ることはできても、「社会的かしこさ」を測ることはできないのである。この実験で確かめられたのは、加齢につれて左脳的な頭の働きが悪くなるという、きわめて常識的な、誰もが経験している当たり前の事実にすぎない。それを「社会的かしこさ」を確かめられると錯誤させるのは、次のような二つの間違いが原因になっている。

論理的推論の能力を測っているだけ

 第一。さきに私はこの実験が「規則が守られているかどうかを確かめる実験だ」と書いたが、実はその「規則」という言葉に二つの意味がある。論理的規則と社会的規則である。正高氏はこの二つを混同している。論理的規則の違反を見抜く能力と、社会的規範の違反を見抜く能力とをまったく同じと見て、議論を進めている。
 この混同は、もう少し具体的な状況を設定したテストを提示することによって、一層見抜きにくくされている。たとえば「未成年者でタバコを吸っている者」を見破るテストとか、「ユダヤ人がタブーとしている金曜日に働かないという規則を破っている人」を探すテストを示している。煩雑になるので詳細ははぶくが、これらはじつは論理的能力のテストなのである。上で示した「母音が書いてある裏面には偶数が書いてある」という抽象的な設定を使ったテストと同様に、単に論理的推論を試す実験でしかない。しかし氏によると社会的規範を破っているかどうかを見破る「かしこさ」のテストということにされてしまう。まったくのすりかえである。使われている題材にかかわらず、このテストは論理的推論の能力のテストにすぎない。題材が「社会的裏切り」を例に使っているので、「社会的裏切り」を見抜く能力がテストされているのだと、ついだまされてしまう。このテストに合格したからといって、社会的裏切りを見抜けるわけでは決してない。こういうごまかしを見抜くのが「社会的かしこさ」なのである。

「社会的かしこさ」とはそんなに単純なこと?

 第二。この実験が本当に「社会的かしこさ」の一端でも測ることができると仮定してみよう。それでも、「社会的かしこさ」というものは、そんなに単純なことなのか、という疑問が生じてくる。
 誰かが社会的規範を破っているかどうかを見破ることも、たしかに「社会的かしこさ」の中に入るだろう。しかし、それはカードの裏側の規則性を考える能力ではなく、人の態度や顔色や身なりや言葉遣い等のいろいろな情報から判断する能力である。
 さらに「社会的かしこさ」を測るためには、もっといろいろな能力を測らなければならない。たとえば、「他人と仲良くやるための処世術」だって「社会的かしこさ」だろう。相手の人柄を見抜き、信用出来るかどうかを判断できるのも「社会的かしこさ」である。これらは論理的な推論の鋭さとは別種の働きである。
 と考えてみれば、「社会的かしこさ」をそんなに簡単に測れると考える方が異常だということが分かるだろう。
 論理的推論の能力は、言ってみれば頭のよさとか、頭の回転の速さと関係している。それが衰えているということは、単にボケてきて、頭の働きが悪くなっているというだけである。「社会的かしこさ」とは直接の比例関係にあるわけではない。
 この著者は、「社会的かしこさ」が論理的推論の能力と同じだという、こんな馬鹿馬鹿しい前提で議論を進めているのである。こんな程度の低い錯誤をして、とくとくとして本を出すのは、学問の堕落である。学問に携わる人間として恥ずかしいと言わなければならない。
 さて、以上の実験の有効性を前提として、彼の実験はいよいよ核心に入る。この実験を専業主婦に対して試したというのである。その結果、専業主婦の「社会的かしこさ」は、外に出て働いてきた女性よりもかなり劣っているというものだったそうである。

実験の内実が示されていない

 ところが、その「フルタイムで働いている女性」と「専業主婦」を比較したと称する実験が、どの程度信用できるのかについては、重大な疑義をさしはさまざるをえない。すなわち、この著者の学問的良心や誠実さには重大な疑いがかけられる。というのは、行ったと称する実験の方法や詳細がまったく述べられていないままに、重大な結論だけが掲げられているからである。
 136頁に「ウェーソンの4枚カード問題への女性の年齢別正答率」という表が掲げられており、「フルタイムで働いている女性」「パートタイムで働いている女性」「専業主婦」別に折れ線グラフが示されている。前二者に比べて、専業主婦の折れ線だけが年齢につれて大きく下がっている。
 しかし、この実験の対象者をいかにして選んだのか、それぞれ何人の対象者についてなされたのか、まったく示されていない。その前の調査には、いちおう100人を対象に行ったと書いてある。一方には示した情報を、なぜ他方には示さないのであろうか。示せない理由でもあるのかと疑われても致し方ない。どの程度の信憑性があるのかという判断を拒否し、批判をさせないで、うむを言わせず信用せよという態度である。
 すでに述べたように、この種の実験で「社会的かしこさ」を測ることがそもそもできない上に、その実験も本当に行われたのか、どの程度の確度で信用できるのかについての判断資料が何も示されていないのである。そもそも統計的結果というものは、どのような方法によって対象を選び、どの程度の人数で実験したのかを、明確に述べるのが最低限のルールというものである。しかしこの著者はそういう資料をまったく示していない。
 この場合、とくに重要なのが、実験対象者の年齢である。この実験は左脳の働き、簡単に言えば頭の回転の速さと正確さを測るのであるから、年齢が高くなれば成績が落ちることは誰にでも分かる真実である。したがって「フルタイムで働いている女性」「パートタイムで働いている女性」「専業主婦」をそれぞれ比較するためには、両方が同じ年齢の被験者を選ぶ必要がある。しかしそれぞれの被験者の年齢については何も述べられていない。それらの点について、本当に良心的に科学的になされたのか、私は重大な疑いを持たざるをえない。というのは、これまで見てきたように、この著者のいい加減な人間性を何度も見せつけられているからである。
 このような態度は「人をなめた」態度と言うべきである。この本を読む人間はたいてい「社会的かしこさ」がないだろうから、こんないい加減な内容でも見破られることはないと、高をくくっているのであろうか。

主婦は「社会的かしこさ」で劣る?

 そこで彼はこう結論する。「社会の掟が守られているかどうかを見抜く能力については、それが後天的な経験によって作られると、かなり自信をもって言い切れると思っている。そうでないと、主婦がそうした能力に劣ることを解説する術がなくなってしまう。」(p.138)
 彼の自信は、論理的な能力を試す実験を、「社会の掟が守られているかどうか」を見抜く能力を試す実験だと錯覚しているところから生まれている。自信過剰は未成熟な人格の特徴である。専業主婦を未成熟だと批判する前に、自らの未成熟を顧みて反省するのが先ではないか。
 また繰り返すが、この実験は単に論理的な能力を試しているだけである。人間の頭脳の働きのうち、ほんの一部の能力を試しているにすぎない。
 この能力が専業主婦では衰えているという結論を私は疑っているが、百歩譲って、専業主婦の人たちがこのテストで不合格が多かったとしても、それがすなわち専業主婦の人たちの「社会的かしこさ」の劣等性を示すとも思えないし、人格が未成熟である証拠とも思えない。たんに厳しい環境に置かれてこなかったためにのほほんとして、頭の回転が鈍くなっているだけかもしれない。

職業婦人にも頭がさびついている人はたくさんいる

 たしかに専業主婦には頭がさびついているとしか考えられないような人もたくさんいる。しかし逆に明晰な頭脳とすばらしい賢さを持っている人もたくさんいる。その人たちの賢さは、恐らく主婦としての仕事が、たとえば子供の相手にしても料理にしても、いろいろな種類の頭脳を使わなければならないことから来ているものと想像できる。
 それに対して、毎日同じ事務的な仕事をやっていたり、同じ人間を相手にしているような仕事を何十年もやってきた女性には、恐ろしく鈍い人もいる。
 人間の「社会的かしこさ」というものは、専業主婦だったとか職業婦人だったとかいうこととは関係なく、どういう仕事ぶりだったか(どういう人生を歩んできたか)ということと関係がある。一概に言えることではない。
 正高氏の偏見によれば、人は外で働くと「社会的かしこさ」を養うことができるが、家の中で家事や子育てをしていると「社会的かしこさ」を失っていくということになる。では聞くが、職業として家政婦をやっていたり、保母をやっている人は、自分の家から外に出てやっているから「かしこく」なり、自分の家庭で同じ仕事をやっている人は「かしこさ」を失うとでも言うのであろうか。私はこれほどの馬鹿馬鹿しい偏見を聞いたことがない。

専業主婦は子供との信頼関係を築けない?

 ところが正高氏の推論は、さらに突き進む。わき目もふらぬ猪突猛進という感じである。曰く、専業主婦は「社会的かしこさ」がないから、子供との付き合い方も下手になり、子供(相手)を信じてよいかどうかも分からなくなり、子供の信頼をつなぎとめるために「モノを買ってやること」で安心しようとすると結論する。
 ここは三段論法の「小前提」に当たる命題である。もう一度読者に思い出してもらおう。

2 社会的かしこさを失うと、子供との信頼関係の形成が困難になる。

 よく分からない命題である。「社会的かしこさ」とは何かが分からない上に、それがないとどうして子供との信頼関係が築けないのかも不明である。失礼ながら「社会的かしこさ」もないし頭も悪い母親でも(というよりしばしばそうした母親の方が)、よほど上手に子供との信頼関係を築いている者も多い。子供とのコミュニケーションや信頼関係にとって、頭のよさはほとんど関係しない。ましてや「社会的かしこさ」などという訳の分からないものとは、なんの関係もないのだ。愛情や優しさの方が子供との信頼関係にとってよほど重要であることぐらい、誰でも知っているし、感ずることができる。子供とのコミュニケーションの成否を左右するのは、「かしこさ」よりも慈愛の心である。
 彼は「社会的かしこさ」を欠いた母親の心理を「子ども中心主義」と名付け、その由来を「人は、自分が誰かのために役立っているという意識なしに生きるのは、ほとんど不可能である」(p.141)という命題から導き出す。
 どうもこの人は、科学的実験に依存しているようなふりをしながら、まったくなんの根拠もない哲学的命題を絶対の前提にして考える人のようだ。世の中には、人の役に立たないでも(人の役に立っているという意識なしでも)、自分の利益だけを追求して生きている人はたくさんいる。著書の前半では、ケータイを持っている子供はえてして利己的になると指摘していたのに、ここでは人はすべて利他的意識なしには生きていけないと言っている。こうした矛盾を平気で犯す人が学者をやっているのは困ったものである。
 こうして正高氏は、専業主婦は子供の心をモノでつなぎとめるようになり、「関係できない症候群」のケータイ人種を生み出す原因になっていると結論する。
 私の観察では逆である。お金やモノで子供の心をつなぎとめる傾向があるのは、むしろ働いている母親の方である。といって、統計を取ってみたわけでもないし、この種の命題を統計的に確かめる術はない。逆に言えば、正高氏の「モノで子供の心をつなぎとめる傾向が専業主婦の方に多い」という命題も、客観的な統計的根拠によっているわけではない。なんの科学的根拠もないのである。ひどい話である。
 正高氏がサルなみになったと嘆く、子供のコミュニケーション能力の減退や「関係できない症候群」は、多くの要因によって形成されている。たとえば、乳幼児期における母親との接触・コミュニケーションの欠如または不足、テレビゲームの過剰、子供を標的にした商業主義とそれに対抗できないで買い与える親たち、規則正しい生活習慣の崩壊、等々である。一口に言えば母性の欠如と父性の欠如である。とくに乳幼児期の母子関係の重要性は、周産期医療関係者、小児科医、心理療法家など、関係専門家が口をそろえて訴えていることであり、多くの専門的研究が発表されている。その重要な母子関係を壊しているものが専業主婦なのか働く母親なのかについては多くの激しい論争がある。私も母親が働いていたのでは、充分な子供との接触が持てないとつねづね警告している。単純な「専業主婦悪者論」で切って捨ててよい問題ではないのである。

手のこんだ詐欺だ

 正高氏は、なんの根拠もなく「専業主婦はモノで子供をつなぎとめる」と言い、それは専業主婦が「社会的かしこさ」を欠いているからだと言い、それが客観的な実験によって確かめられたと僭称している。
 この本は手のこんだ詐欺である。前半では、サルに関する客観的観察とデータを示しながら科学的考察を加えるふりをして読者を信用させておき、さらにいかにも客観的な実験のように見せかけた「ウェーソンの四枚カード問題」を持ち出して信憑性を演出しながら、最後は主観的な偏見に満ちた専業主婦差別へと導く。読者を欺く詐欺であり、こういう学者を曲学阿世の徒と言う。誰に媚びているかというと、フェミニストと「働く母親」にである。
 この「研究」によって、専業主婦への差別的発言は一層増大することであろう。少なくとも専業主婦差別意識に対して、エセ「科学的」裏付けを与えたと言える。フェミニストが掲げてまわらなければいいが。
 いい加減な上に偏見と差別意識を隠した、このような本が中公新書から出されたことに、私は大きな失望と遺憾の念を感じている。私も中公新書から三冊の本を出している。中公新書の信用を失わせるような、このようなひどい内容を編集部がチェックできなかったのかと、不思議で仕方がない。
 正高氏の専業主婦への偏見と差別意識(と抜きがたい敵意?)は、どこから来ているのだろうか。私は氏の生育歴をまったく知らないが、「あとがき」の中にこんな一節を見つけた。中学二年のとき「土曜日の昼ごろ帰宅して、ひとりでこたつに入り、テレビを見ていた」と。母親はどうしていたのかなと、ふと疑問に思った。


 サル学は人間学たりうるか
     (平成16年1月4日初出)
 サル学者が本を書くと必ず売れる。売れる本は必ず人間(の社会)を風刺したり揶揄したりしているからである。人間たちのマナー違反や愚かな行動に眉をひそめている人たちは、それがサルと同じだと言われると、うっぷん晴らしができるので、面白がって喝采する。

思想的偏向に奉仕してきたサル学
 サル学の背後には必ず一定の思想が隠されており、その結論を客観的に見せたサル学で補強するという仕掛けである。
 すでに50年くらい前の、日本民主主義の初期には、「サルのイモ洗い行動」に関する研究がもてはやされた。海水でイモを洗って食べる新しい「文化」を若いメスザルが始めたところ、年配のメスザルと若いオスザルには広まったが、年配のオスザルは頑としてその「文化」を拒否したというものであった。
 この話は、頑迷固陋と目された封建的な古い意識を否定しようとしていた社会のニーズに合致していたので、「やはり年寄りは駄目だ」というので、「愉快な話」としてあちこちで取り上げられた。
 もちろん、今から見ると、この立場が一定の偏向思想に犯されていたことは明かである。つまり若者の傾向なら無条件で正しく、年寄りの抵抗はすべて悪だという前提に立っていたからである。(もちろんその前提は間違っている。どこが間違っているかは拙著『家族の復権』p.99以下の「ボス猿の保守性には意味がある」をお読みください。)
 この思想的風潮は昨今では世俗化して、「若さ」に第一の価値を置き、そのために「シワ取り」や「白髪染め」をし、年配女性たちが顔をフランケンシュタインのようにまっ白に塗りたくる化粧が流行っている。「若い」ことにのみ価値を置く戦後民主主義の奇形を見るようである。

フェミニズムに媚びるサル学
 さて、昨今の流行の思想は言わずとしれたフェミニズムだが、この思想は「困った」社会現象をすべて「母子密着」型子育てのせいにしてしまう。幼児虐待もパラサイトシングルも凶悪犯罪もすべて「親離れ・子離れ」できない(自立できない)親子関係のせいだとされる。
 じつは逆だということは、私がかねてより主張してきたことであり、幼児虐待も凶悪犯罪も「母子密着できない病」の結果なのである。
 分かれた友達と、すぐに電話するというのも、誰かと繋がっていないと不安になるからであり、そういう心理的欲求は家族の中で人間関係に満足していたら絶対に出てこない不安感である。親の愛情が充分に感じられていたら、誰かとつながっていないと不安だなどとは感じないものである。このごろではそうした不安感は、別れた友達とすぐにケータイのメールで「会話」をするという形で現われている。
 ところが、この不安感の原因をまったく反対に解釈する「学問」が現われた。正高信男『ケータイを持ったサル』(中公新書)である。彼は、ケータイで交信するコミュニケーションの方法と、サルの呼び声による交信の方法がそっくりだと指摘して、ケータイを持った若者がサル並みに退化していると指摘した。
 ケータイ族に眉をしかめていた人たちに受けそうな論の設定である。
 しかしケータイによるコミュニケーションと、サルの呼び声による交信の仕方が似ているからといって、ケータイで交信する者がサルの段階へと退化したとは言えないであろう。この本はこの前提からして間違っている。
 呼びかけと応答というパターンはすべての生物に見られるコミュニケーションの基本であり、ある種のサルはそれを呼び声で行う方法を特殊化させたというだけの話である。人間の場合にはコミュニケーションが複雑化しており、さまざまな方法を用いる。その中の一つ(ケータイ)だけを取り出して、その方法を使っているからといって、サルと同じレベルだと断ずるのは、あまりにも不公正である。私はケータイばかり使っている若者を弁護するつもりはないが、その若者たちがケータイ以外でどういうコミュニケーションをしているのかきちんと調べてみないで、否定的にのみ批評するのは公正を欠いていると言わざるをえない。
 ケータイを使うのはただの一時的な流行かもしれないし、人間の呼びかけと応答の仕組みは複雑であり、今の若者が全体としてそんなに単純化してしまったとは言えないであろう。正高氏の論述はあまりに短絡的で単純であり、これでは若者の短絡的反応を笑えない。サル学者の頭がサル並みに単純化してしまったのかと疑うほどである。
 
フェミニズムにおもねる曲学阿世
 世に阿(おもね)って学問を曲げる者を曲学阿世の徒と言う。この正高信男という男はまさにこの曲学阿世の徒と言うにふさわしい。
 この本の主題は「サル並みに退化したケータイ族は、母子密着育児の産物だ」というところにあり、しかも念のいったことに、その母子密着型育児は「社会的賢さに欠ける」専業主婦にありだちだという結論である。
 別稿で「専業主婦が社会的賢さに欠ける」という命題が、いかにインチキで出鱈目な推論の積み重ねによって導き出されたものかを明らかにした。
 ここでは、本当に母子密着型子育てが増えているのかどうか、彼の論証を吟味してみよう。
 先に述べておくと、私の認識では、マザコン型の弊害もあるが、弊害の量と質の両方で、「密着できない」型の弊害の方がはるかに多くかつ深刻である。このことは『母性の復権』『母性崩壊』等の著書で縷々述べてきたので、ここでは繰り返さない。
 正高氏の認識では、「ケータイを持ったサル」の弊害は、とくに専業主婦を中心とした母子密着型育児に原因がある。
 ただし、そう言ってはみたが、母子密着型育児が原因だというとらえ方に自信がないのか、彼は「母子密着型育児の激化」が原因だという「議論はまだ推測の域にとどまっている。母子関係は本当にかつてより濃厚になっているのだろうか」と自問して、次のような考察によって「濃厚になっている」という結論へと導く。(p.34以下)
 すなわち、子育ての密着度を「母親の子に対する経済的な投資の多寡で測ることにした。」この方法でいいという理由とは、「子育てに情熱を注ぐ程度が強ければ強いほど、出費をいとわないのではないか。それどころか、むしろ喜んで支出するのではと想像したのだった。」(p.36)
 そういう想像から出発して彼は「子供に月々いくらかかるか」から始まって、「こづかい・学費・昼ごはん代」と詳しくデータを示す。さらにご丁寧に「父親への出費」と比較し、いかに子供への出費が異常に高いかを印象づける。そして「中流所得層に根強い子ども中心主義」という結論へと導く。
 いかにも学問的データによって客観的に導き出された結論のように見える。しかし、そもそもの前提(それも想像上の)が間違っているのだから、話にならない。
 「子育ての密着度を、母親の子に対する経済的な投資の多寡で測る」という方法そのものに問題があるのだ。というより、「経済的投資の多いほど密着度が高い」という前提に問題があるのだ。
 逆に「経済的投資の多い親ほど愛情が欠けている」とか、「物やお金で愛情の代わりをさせている」と見ることもできる。日常的な観察でも、日頃子供と接する機会や時間のない親ほど、お金を与えて愛情の代わりをさせているケースが多い。
 もちろん、「経済的投資の多い親ほど愛情が欠けている」と断定したのでは、逆の意味で不公正だし、事実とも合致していないだろう。愛情の多さが経済的投資に比例している場合だってあるだろう。しかし逆にお金をかけなくてもたっぷりと愛情があり、子供も満足している場合だってあるだろう。要するに愛情と投資は常に正比例しているわけではないのである。
 愛情と投資は常に正比例しているという前提に立つと、「子供は耐久消費財」だという、ある種のフェミニストが主張しているとらえ方と同じ結論に到達する。正高氏はどこまでもフェミニストに同調している。
 こうして、この本はフェミニズムという偏向思想に媚びた内容を、いかにも科学的な実験や推論を重ねた末の結論のように見せかけている、とんでもないまやかし本である。サル学の弊害ここに極まれりという感じがする。
 フェミニズムは学問の水準をひどく堕落させたが、フェミニズムの影響を受けた男の学者たちまでも、学問をイデオロギーの侍女にしている光景を見るのは悲しい。
 サル学を人間に適用するためには、厳密な方法論的吟味が必要である。しかし正高氏のようにサル学からの類推によって安易に人間について論ずるというのは、方法論に対する畏れがなさすぎる。サル学から人間を揶揄して面白がっているのは、幼稚というほかない。どうも正高氏はサルより幼稚ではないかと思えてならない。
 

質問 正高信男批判へのささやかな疑問

 こんにちは、はじめまして。じつは「母性とフェミニズム 30 エセ学問の害毒 ──正高信男『ケータイを持ったサル』の差別感覚」について、あるサイトの掲示板で話題になりまして、皆さん内容的にはまったく賛成なのですが、いくつか小さい疑問があるという話が出ていました。先生の議論の進め方や用語についての疑問なので重箱の隅をつつくようで恐縮ですが、以下の3点について、私も先生の議論の仕方に疑問があると思うのですが、お時間のあるときにお答えをいただければ幸いです。

 第一は、三段論法についてです。先生の言い方だと、「三段論法すべてが悪いというように受け取られるが、三段論法というのはもともとそれ自体が悪いわけではなくて、それを詭弁に使うのが悪いと言うべきではないか」という疑問です。先生が「三段論法というのは、古代ギリシアのソフィストが用いた詭弁の手法であり」と書かれているのは間違いではないかという疑問です。また正高氏の論法は「インチキ三段論法」であり、「三段論法モドキ」と言うべきであって、「正高氏の三段論法」と言い方はおかしいという批判も出されていました。

 第二に、「正高氏の論法は因果論の形式になっており(じつは因果論にもなっていない因果論モドキですが)、三段論法にもなっていない代物です。それを三段論法というのは林先生の勘違いではないか」という疑問です。

 第三の疑問として出されているのは、先生の「思想的偏向に奉仕してきたサル学」という言い方に対してです。「サルのイモ洗い行動」がどのように伝播したかの研究について、思想的に偏向した人達が利用して、年寄りを小馬鹿にする話にしてしまったのは、勝手に解釈した人の責任であり、サル学の責任ではない、という反論です。 サル学とそれを利用して自分の思想を語ることとを区別すべきだという意見です。

 以上、3点について、先生のお考えを聞かせていただければ幸いです。

 

お答えします

 お便りありがとうございました。こういうお便りをいただくのも、私の正高信男批判が多くの方に読まれているからでしょう。うれしいことと思います。最近たいへん忙しく、お便りをいただいてからかなり時間が経ってしまいましたが、以下質問にお答えします。

 ご質問のあった3点については、たしかに私の表現が不正確で、誤解をまねく要素があったと思います。よい質問をしてくださったので、このさい誤解を解くと同時に、批判の中には間違いと思えることもあるので、反論しておきたいと思います。(批判されたという方は一人か複数かは分かりませんが、仮にX氏としておきます。)

 まず第1に「三段論法がすべて間違いなのではなくて、正当な三段論法もあり、それを詭弁に使うのがエセ三段論法なのだ」という言い方は、三段論法についての理解が間違っていると思います。三段論法とは、二つ(以上)の前提から結論を導く推論の形式のことであり、それが妥当な推論なのか妥当でないのかという内容にはかかわりなく、形式がととのっていれば三段論法と言えるのです。だから「エセ三段論法」とか「三段論法モドキ」という言い方そのものが間違いなのです。そういう言い方は内容に関して正しいか正しくないかを言っていることになります。内容にごまかしが入っているか否かにかかわりなく(内容が間違っていようが詭弁になっていようが)、大前提-小前提-結論という推論がなされていれば、それは三段論法と言えるのです。「三段論法モドキ」という言い方は、内容から「三段論法かどうか」を決めていることになり、「三段論法」の理解が間違っています。(なお、こまかいことを言うと、私がまとめた正高氏の論法はじつは四段論法になっているのですが、「三段論法」の定義が「二つ以上の前提から結論を導き出す推論の形式」となっているので、これも「三段論法」の範疇に入るのです。つまり四段論法でも五段論法でもすべて三段論法の組み合わせという見方なのでしょう。)

 次に私が「三段論法がすべてニセモノだ」と言っていると受け取るのは誤解です。私の文章は「三段論法というのは、古代ギリシアのソフィストが用いた詭弁の手法であり、今まで私が暴露してきたように、フェミニストたちが多用するごまかしの手法(フェ理屈)である(『フェミニズムの害毒』p.58以下を参照)。」となっています。ここを字句どおりに読むと「三段論法=詭弁」と言っていることになりますが、ここは『フェミニズムの害毒』を前提にしているので表現が少し乱暴になってしまいました。正確には「三段論法を使ってソフィストが詭弁を弄した、正高氏も同様」という意味です。まあ、しかし、故意に意地悪に読まないかぎり、「三段論法はすべて詭弁だ」と言っていると受け取った人はそうはいないと思いますが。もっとも私の表現が乱暴だったとは反省しました。

 第2の疑問点について。「正高氏の論法は因果論の形式になっており、したがって三段論法ではない」というのは、間違いだと思います。三段論法というのは、大前提、小前提を前提とした上で結論を導き出す推論の形式です。その中で、大前提、小前提の中に因果論を装った推論をすべりこませているからといって、「三段論法でない」とは言えないのです。

 正確に言うと、正高氏の論法は「もし……ならば、……である」という形式の「仮言的命題」の連鎖を使った「仮言三段論法」です(ちなみに「…… である」と断定的な文章を使うのを「定言三段論法」と言います)。だから因果論に見えるし、また読者に因果関係のように錯覚させる効果を持っています。手の込んだ詐欺だと私が言った所以(ゆえん)です。

 X氏は、正高氏の因果論は正しくは因果論になっていない「因果論モドキ」だと言っているそうですね。それでいて「因果論だから三段論法ではない」という言い方をするのは、矛盾していると思います。正高氏のは因果論ではなくて、因果論を装った推論(ゴマカシの入った三段論法を使った推論)です。だからそれを私が三段論法だと言ったのは、勘違いではありません。勘違いしているのはX氏の方でしょう。

 第3の、サル学とそれを使った評論とを区別すべきだという批判について。確かに私の表現には問題があったと思います。サル学すべてが悪いと言っているように受け取られたとしたら、そんなつもりは毛頭ないので、訂正しておいてください。地道にサル学を研究している人が見て気を悪くしたとしたら、申し訳なかったと思います。当然ながら、サル学がみな悪いはずがありません。

 ただし、私の言いたかったことは、サル学者の中にも、思想的に偏向した評論に手を染める例が少なくないということです。たとえば、昔の例を出すと、私が例に挙げた「サルのイモ洗い行動」を紹介した伊谷純一郎という人は、単に事実を報告したのではなく、いろいろな所に顔を出して、「年寄りは頑迷固陋で駄目だ」というニュアンスで、世の風潮に媚びるようなエッセイを書きまくっていました。

 正高氏も同様です。彼がサル学者でないとは言えないでしょう。なんといっても京都大学霊長類研究所の教授です。京大霊長類研究所と言えばサル学の権威ではないのでしょうか。そこの教授が単に地道に研究しているだけではなく、専業主婦に対する恐ろしい偏見を振りまいています。彼がニセのサル学者か三流のサル学者か知りませんが、単に他人のサル学の知識を悪用しているというのではなく、自らの研究成果を使って、自らの偏見を補強しています。

 これらの場合に、サル学者とサル学を使った評論家とを区別することはできないでしょう。私はまさにこういう偏ったサル学者兼評論家を批判しているのです。とくにサル学を人間論に応用する場合には高度な方法論的考察が必要になると言っているのです。

 もし「あれはインチキ・サル学者」だと言うのであれば、ただ「あれは三流」だといって済ますのではなく、15万部以上も売れている本の内容がサル学として正しいのかどうかを、是非ともきちんとした地道なサル学者に吟味し批判してほしいと思います。これだけ重大な批判にさらされているサル学者の著書について、ただ「私は読んでいない」といって知らぬふりをすることなど、学者の良心としてありえないことと思いますが、いかがでしょうか。