フェミニズム

 

25 木村治美氏の反フェミニズム批判はフェミニズムそのものだ

   ──保守派の中のフェミニズム

        (平成15年6月13日初出)

 

 「日本会議」の月刊誌『日本の息吹』の本年6月号に木村治美氏の「男らしさ女らしさの価値──出産・育児が基本」という文章が載っている。

 これを一読して私は仰天した。まるでフェミニストたちと同じ認識を示しており、反ジェンダーフリー論に対するフェミニストたちと同じ反発を表明しているからである。さらに男女の違いの認識についても、フェミニストたちと同じ誤りを犯している。

 

役割分担への反発

 木村氏は書き出しにおいて「ジェンダーフリー」運動を「ファシズム」だと断定しているので、一見フェミニズム批判の文章かと思える。ところが中身の大部分は反ジェンダーフリーへの批判である。

 木村氏は「反ジェンダーフリーの立場」を次のように批判している。

 

 反ジェンダーフリーの立場から、役割や性格の性差をはっきり線引きされるのにも、とまどう。あるシンポジウムの発言者が「援助交際は悪いことだときっぱり叱ってやるのが父親の役目です」といった。母親にはそういう善悪の判断力がないというのか。断固として叱ってやる強さがないというのか。

 思うに、フェミニズムやジェンダーフリーを意識しすぎ、あえてアンチの立場から発言すると、両側から足をすくわれかねない。「話を聞かない男、地図が読めない女」といった題名の本があった。全般的にはそういう傾向があると思うが、例外はいくらでもある。これからは中立的な立場から、性格の性差や能力差について研究してもらいたい。

 

 エッセイストを名乗り、エッセイの書き方を人様に教えている人にしては、意味の取りにくい文章である(「意識しすぎ」「アンチの立場から発言する」と「両側から足をすくわれる」とはどういう意味なのか?)。

 どうやら、男女のあいだに線引きをして、男はこの役割、女はあの役割とはっきりと分けてはいけないという御趣旨のようである。まるでフェミニストの性別役割分担への反発と同じである。

 多分その例としてだろうが、「叱るのが父親の役目」という発言に対して、「母親は叱ることができないのか」と噛みついていらっしゃる。それは言いがかりというものである。誰も母親は善悪の判断力がないとも、叱れないとも言っていない。まるでフェミニストたちと同じ感情的反発である。

 その発言者の言いたかったことは、父親が叱る方が迫力や権威という点で違いがあるということであろう。叱るのは父親の方が適しているという話であり、母親は叱れないとか叱っていけないという次元の話ではない。父親独自の役目、母親独自の役目があるという考えから出た発言であろう。しかし木村氏はそれが当然だとは考えていないようだ。

 そもそも男女を分けることがけしからんという気持ちをお持ちのようである。たとえば、「話を聞かない男、地図が読めない女」という本があったが、そういう分け方はよくない、なぜなら例外がいくらでもあるからだとおっしゃっている。あげくのはてに「これからは中立の立場から研究せよ」とおっしゃる。

 と言うからには、その本が中立的でないと判断しておられるらしい。私はその本を隅から隅まで丁寧に読んだが、「性格の性差や能力差」についてのきわめて中立的であり、かつ実証的な諸研究をふまえた良心的な研究書だと思う。いったい木村氏はその本をきちんと読んだ上で批判をしているのであろうか。

 木村氏は「例外はいくらでもある」と書いている。例外があるから法則が成り立たないと言いたいのであろうか。逆であろう。例外があるということは法則がある証拠である。男女の違いには法則性があるという命題に対して、例外があるから男女の違いについて言ってはいけないというのは、それこそ本末転倒と言うべきである。

 

違いは出産(育児)だけか

 男女の違いについては、今日では脳科学の発達によって、脳の配線から異なっていることが明らかになっている。くだんの本もそういう最新の諸研究をふまえて発言しているのである。

 つまり男女の違いは、ラジカル・フェミニストたちが主張してきたように、単に「女性が出産する」という点だけだというのは間違っていたのである。科学の目で見れば、「出産以外の点では男女に生まれつきの違いはない」というフェミニストの主張は根本的に間違っていたことが白日のもとに明らかにされているのである。

 男女の違いは脳の仕組みの違いから来ており、その現象としての行動様式、発想、思考様式、配慮の仕方、感じ方等々、あらゆる面で見られるのである。その違いが生得的なものであることが明らかになっているのだ。つまり今や「男女の違いは出産するか否かにしかない」などという認識は、前世紀の遺物になりつつあると言っていいのである。

 言い換えれば、女性の特徴(女らしさ)は「出産」(体験)から生まれるものではなく、それ以前から、脳の仕組みそのものから生まれているのである。出産や育児への適性も脳の仕組みからきているのである。

 

 保守派の男性の中にも「出産は女性にしかできないことであり、男には真似ができない」と女性を持ち上げる人たちがいる。女性に対するロマンチックな賛美としてなら言ってもいいが、男女の違いを強調するために言っているのだとしたら、それはまずい作戦である。

 というのも、ラジカル・フェミニストもまた「男女の生まれつきの違いは出産のみ」と言っているからである。その他の、たとえば育児をはじめ、すべての分野で男女の違いはない、違いはただ社会の育て方から生まれたものにすぎない、と言っている。その結果、警察や自衛隊においてさえも、「すべての職種を女性を解放せよ」と要求しているのである(本HP「母性とフェミニズム」24参照)。

 

文明が進むと男女の差はなくなるか

 木村氏がラジカル・フェミニストと違うのは、「出産」のほかに「育児」を付け加えている点だけである。それ以外では男女の差を認めたくないという点では、木村氏の発想はラジカル・フェミニストとまったく同じである。

 そのことを示しているのが、木村氏の次の文章である。

 

 昔は体力の差、出産を含めた生理の差が、日常生活の中でさえ男女の役割をわかりやすいものにしていた。力仕事は男性に適しているので、戦争に出て家族を守った。女性はこまごまとした家事労働で、家族を守った。

 いま戦争は小指で押せるボタンになった。こまごまとした家事も大半は機械文明がやってくれる。日々の暮らしの中で、なにが男の仕事か女の仕事か、わかりにくくなった。

 つきつめれば、女性には子どもが産める、という性の部分の差しか残らない。その差は大きく基本的なものである。

 

 文明社会で男女の差についてはっきりしているのは、出産と育児をめぐるものだけである。

 

 このような動物的側面を大切にすることで、社会はどのような受け皿を用意するか、男女たがいに相手になにを期待すればよいかはっきりしてくる。

 

 これは根本的に間違った認識である。

 文明によって男女の差がなくなっているという認識は間違いである。

 戦争は小指で押せば済むというものではない。いつまでたっても、体力を消耗する歩兵の必要はなくならないし、重い兵器を動かし、過度の集中と瞬時の判断を必要とする戦闘機を操縦するのは男性的な脳の方が適しているのである。命をさらす危険もあれば、女性が捕虜になったときに人道的に扱ってもらえるという保証もない。

 他方、女性の家事が文明の利器によって楽になったからといって、こまごまとした配慮や気配りが無用になるはずがない。とくに育児においては女性的な心配りはどんな時代になっても大切なものである。

 

「出産・育児が基本」は危険な考え方

 木村氏は男女の差の由来について、根本的に間違った認識に立っている。「出産・育児」という「動物的側面」から男女の差が生じているのではないのである。胎児のときの染色体の違い、男性ホルモンの浴び方の違い、そこからくる遺伝的な脳の仕組みの差から、出産・育児についての差も生じているし、その他の差も同様に生じているのである。出産育児の差が特別なのではなく、他のたとえば感受性・行動様式・攻撃性などの性格・さまざまな能力(話す能力・地図を読む能力・共感する能力・抽象力・論理力・体力・運動能力)などの差も、同様に根本的であり重要である。これらの差は、出産するか否かから生じているのではない。

 「出産・育児が基本」という主張はいかにも説得力がありそうだが、そう考えてしまうと、他の違いは色があせてしまい、どうでもよいものとなる危険を蔵している。げんに木村氏の場合には、他の違いについて、「例外もある」「例外を認めよ」という形で、性差に線引きをすることに異論が出されている。

 そういう形で木村氏の考え方は、フェミニズムに限りなく近づいている。それもラジカル・フェミニズムに。

 たしかに女性が自らの「産み育てる」能力を誇りに思い、そこに生きがいを感ずるのは、すばらしいことだし、人類の未来にとっても好ましいことである。しかしそこにしか女性性の意義を見出すことができないとしたら、それは女性の価値を「出産」へと極小化するラディカル・フェミニズムと同じになってしまう。女性性の存在意義は、社会的にも人生の中においても、もっと広く大きなものではないであろうか。女らしさが社会全体に与える美しさや優しさ、世の中をなごやかにする効果、こまやかな心配り、人間関係の潤滑油としての役割等々、例を挙げればきりがない。

 女らしさが基本にあり、それによって出産や育児が可能になるのであり、出産や育児によって女らしさが出てくるのではない。もちろん実際の場面では、出産や育児を経験する中で女らしさが強まり洗練されることも多いだろう。しかし出産や育児は女らしさが出てくるきっかけではあるが、女らしさの原因ではない。女らしさを決めているのは、出産以前の遺伝の仕組みなのである。

 

「男らしさ」も「女らしさ」も分かっていない

 結局、この人には性質としての「男らしさ」も「女らしさ」も分かっていないのではないか。

 「男らしさ」がまったく分かっていないことは確かである。本HPの「時事評論1」の末尾で論じたように、木村氏はバスジャック事件のときに、男が五人もいて、とびかからなかったと言って非難した。男性的な勇気と蛮勇とが区別できていない、本当に勇気ある行動とは何かについてまったく分かっていない。

 「女らしさ」についても、どう理解しているか疑問である。たとえば、「おしとやか」とか「立ち居振る舞いの女性特有の優美さ」「気持ちの優しさ」という性質として理解しているのかどうか。「気持ちの優しさなら男でも持つべきだ」と言いたくなるのではないか。出てくる例は「男に抱きすくめられ、女のやわらかさに温められ」というような直接的感覚的なもので、美しさや優しさなどの性質については考えられていないのではないか。

 「女らしさ」の基本を「出産」「生殖性」として捉えたいという心理の裏には、気持ちや振る舞い方といった性質全般にわたるものとして理解したくないという心理が働いているのではないか。その心理こそ、フェミニスト特有の心理なのだが。

 口では「男らしさ」「女らしさ」の否定に反対だと言いながら、返す刀で「フェミニズムやジェンダーフリーを意識しすぎ」てはいけないとか、「あえてアンチの立場から発言」することは危険だと言っている。

 「話を聞かない男、地図が読めない女」という本を槍玉に挙げているのも、心理・性格・気持ち・心配りなど性質全般にわたる区別をする(性差を言う)ことに反発しているのである。これこそ「出産」以外のあらゆる性差に反対しているフェミニストと本質的に同じ心理と言わざるをえない。

 木村治美氏は悪しき意味でのフェミニストである。フェミニズムを批判するような顔をしてフェミニズムをまきちらす、こういう隠れフェミニストは札付きフェミニストよりもっと始末が悪い。

 

 追記

 木村治美氏に対して、私は本HPで一度批判をしている(時事評論1)。さらに平成14年12月1日付の『産経新聞』の「正論」欄の木村氏の文章に対して、意見を編集部に送ったことがある。

 その意見が編集部より送られたのか、それとも私のHPでの批判を知ったのか、ある会合で出会ったとき、木村氏は怒った顔で私を睨みつけながら「批判するときは直接言ってください」と言った。

 おかしなことを言う人である。物を書いて発表すれば、それに対する批判が発表される可能性があるのは当然のこと。批判は当然公表しなければ意味がない。新聞や雑誌に公表された意見を間違いだと思った者は、批判を公表する権利がある。

 一方が新聞で何百万もの人たちに意見を公表したが、それを批判する者は公表してはいけない、相手に個人的に言うしか許されない、などという不公平なルールはどこにもないはずである。

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