エッセイ

11 怖がる能力

      (平成15年2月1日初出)

 女子学生の感覚の異変に最初に気がついたのは、すでに10年以上前のことである。

 私は講義の中で、蛇信仰について話をするときに、面白半分に「蛇が嫌いな人」「蛇が気味悪くない人」といって、手を挙げさせる。10年くらい前までは、「蛇が平気」という学生は100人に一人か二人という程度であった。「変わった人がいるものだ」くらいですんでいた。

 ところが「蛇が平気」という人の割合が、その後どんどん増えて、今では一割くらいの学生が手を挙げる。女子学生だったら、「キャー」と騒いだり、ゾーッと鳥肌がたつという反応が普通である。「平気」という反応の方が異常であった。しかし今では「平気」が異常とは言えなくなっている。

 私はこの「蛇が平気」という感覚が、どういう育てられ方をしたら生まれるのかに、興味をもった。といって、一人ひとりに生育歴を詳しく聞くわけにもいかない。

 そのうち、問題を逆転してみて、そもそも人間(の大部分)はどうして蛇を気持ち悪いと感ずるようにできているのか、ということが問題ではないかと思うようになった。

 もし人間が蛇を怖がるように出来ている(本能としてプログラミングされている)としたら、蛇を気味悪がらない人間は、何かが欠けているということになる。欠けている何かとは、たとえば本能的な部分とか、人間としての基本的な感覚の部分である。

 もっとも、蛇を怖がらない人間が、すべて本能的なものが欠けているとは言えない。昔、子供のころに、悪ガキが蛇を手づかみにして、女の子に近づけてキャーキャー言わせていたが、あの悪ガキに本能が欠けていたとは考えにくい。

 しかし、このごろの蛇を気味悪がらない女の子たちは、彼女らから受ける感じがかつての悪ガキとはまったく違っている。悪ガキは健康そのものだったが、くだんの女の子たちはどこか○○である(差別的と言われるので、はっきりとは言えない)。少なくとも、どこか変である。これは私の長年の教師としての、また心理臨床に携わってきた者としての勘である。どこか大切なところが狂っているか、欠けているという感じなのだ。

 この「欠けている」ものを探り出すために、そもそも人間はなぜ蛇を怖がるのか、それはどのくらい生得的なものなのか、という問題を解決しておかなければならない。

 じつはこういう問題を研究している人がちゃんといたのである。たとえば正高信男『父親力』(中公新書)によると、そもそも人間が何かを怖がるのは、そのものを怖がるように本能的にプログラミングされているからではない。

 つまり昆虫のように、誰からも学習しなくても、自動的にある行動をすることができるという意味での「本能」ではない。そういう昆虫的「本能」を、高等動物はほとんど持っていない。代わりに高等動物が手に入れたのは、一定の法則に従って学習できるという本能的な仕掛けである。

 いま話題にしている「怖がる」という心の働きに即して言えば、人間にとって危険なものを怖がることを学習できるような仕掛けが本能的に備わっているということなのだ。

 その仕掛けとは、具体的に言うと、こうである。人間の乳幼児は、周りの大人、とくに母親の表情や声の調子、雰囲気を読みとる能力が非常に高い。母親があるものを怖がったり気味悪がったりしたら、瞬時にしてその雰囲気を理解し、そのものが怖いものだということを「学習」し、以後その感じをずっと持ち続けるのである。

 つまり人間が蛇を怖がるのは、親が蛇を怖がったという体験を持っていて、それを引き継いでいるということなのだ。

 この学習の能力は、人間が安全に生きながらえていくために絶対に必要な能力である。この能力が涵養されているということは、個々の危険を回避できるというだけでなく、そもそもこの世には恐ろしいもの、危険なものがあり、それを恐れなければならないという感覚を持てるということを意味している。

 これは個々のものへの危機意識を超えた、メタ危機意識(または危機意識一般)とでも言うべき、基底的な「恐れ」の感覚である。母親が怖がっているのを見せるということは、そのものが本当に怖いかどうかではなく、この世に怖いものがあるということを知らせる意味で、大切な行動なのである。

 もし親や周囲の大人が、怖がるという行動を取らない場合、それどころか逆に「怖くないよ」とか「お化けなんて迷信だよ」とか「この世に本当に悪い人なんていないんだよ」などと意識的に教えて育てると、どうなるだろうか。親は子供に安心感を与え、怖がるのを慰撫しているつもりであろう。ときにはイデオロギーや信仰から、「怖がる」ことを否定する人もいる。それは「悪い人」がこの世にいるということを認めることだから。「この世には本当に悪い人などというものはいないのだ」という信仰または信念を持っている人たちである。

 こういう親に育てられると、子供は本能的な恐怖をはぎ取られた状態に置かれる。つまり「蛇なんて気味悪くない」という子供に育つのではなかろうか。

 逆にこのごろ目立つのは、蟻を目の敵にして踏みつぶす幼児である。それは母親が家の中に入ってきた蟻を気味悪がって、殺虫剤をかけたり、踏みつぶすのを見て育ったからであろう。

 ことほどさように、大人(とくに母親)の感覚や行動は子供の感覚に強い影響を与える、しかもそれはほとんど不可逆らしいのだ。

 母親が適切にであれ、不適切にであれ、怖がったり気味悪がったりする中で育った子供は、怖がる対象が適切かどうかに関わりなく、「怖がる」という能力は身に付いている。ちょっとでも怪しいと感ずれば、身を引くとか、止めるという行動をとる確率が高くなる。危険に近づかなくなる。

 このメタ危機意識に欠ける若者がこのごろ急増しているのが、私には恐ろしく感じられる。とくに女の子に多い。ひところはやたらと高い「厚底靴」を履いた女の子が闊歩していた。ああいう危険きわまりない履き物を、どうして親が許すのか、また本人も危険を感じないのか理解に苦しむと思っていたが、幸か不幸か大きな惨事は報告されなかった。しかし骨折や捻挫は多発したそうだし、厚底での車運転で事故が数件報告された。大惨事が起こらなかったのは、偶然の僥倖だったかもしれないのである。

 ところが、最近流行のロングマフラーは、私の心配どおりさっそく死をもたらした。私の子供のころには、自転車に乗るのにも、親や先生から、裾のひらひらしたものや、長いスカートで乗らないようにと、再三にわたって注意を受けたものである。長いマフラーをひらひらさせてバイクに乗るなどは、自殺行為としかいいようがないではないか。バイクに乗らなくても、どこでどういう形で絡まるか、巻き込まれるという危険は当然予想できることである。私が親なら怒鳴りつけても止めさせる。いや私の子供には怒鳴る必要もなく、止めよという必要すらなく、小さいときから危険に対する感覚を植え付けてある。

 亡くなった者は気の毒だが、本人も親もロングマフラーなどという危険きわまりないものに対して、どうして危機意識を持たないのであろうか。出会い系サイトの怖さについての感度の低さも、そうとうなものである。どこの誰とも知らない人間と、なにも確かめずに付き合い始める。いくら寂しさを持っていても、怖いという感覚が強ければ、二の足を踏むはずである。

 どこかで、親から子への危機意識の伝承が途絶えているとしか考えられない。危険に対する緊張や用心といったものが、日本人全体から消えつつあるのではないか。

 と言うとき、私の脳裏にあるのは、イランや北朝鮮に対する恐れや警戒心のなさである。北朝鮮の拉致をめぐる報道によって、日本人の北朝鮮認識は格段の進歩を見せた。しかし左翼の学者や評論家たちは、依然として「敵か味方かという二分法はいけない」「対話で解決を」とのたまっている。(本当に「敵・味方」二分法はいけないのか、という問題については、本HPの「時事評論」49を読んでください。近日中にアップの予定。)

 この脳天気さが、韓国の若者を中心に蔓延し、とっくに破綻している危険な「太陽政策」を延命させている。

 危険や恐怖を正確に感じ取る能力が減退していることこそ、本当に恐ろしいことではなかろうか。