エッセイ

10 批評の公正さと品性について

   ──内田樹(たつる)氏の批評への疑問

      (平成15年1月27日初出)

 

 私は自分が他人から不当に評価されるのは嫌いだ(嫌いでない人はいないか)が、なぜかそれ以上に他人が不当に評価されているのを見過ごすことができない性分である。

 どうしてそういう性分になったのか、いつも不思議に思ってきた。というのは、日本人でこういう性格(正義感がつよくお節介)を持っている人間はかなりの少数派であるから。

 私は子供のころから、いじめられている子を見つけると、敢然として「やめろ!」と言ってやめさせたことが再三ならずあった。といっても、子供のころは体格が小さく、喧嘩も弱かったと思う(「思う」というのは、本気になって殴り合いや取っ組み合いをやったことがないので本当のところは分からないから)が、勉強が出来たせいか(私はいつも親切に誰であれ分からない子に勉強を教えてやっていた)、親が同じ学校の教師だったせいか、私が強い態度で「やめろ!」と言うと、たいていの悪ガキはやめたものである。

 

 私のような性格がどうしてできあがったのか、自分にとっても謎であった。この謎を私はどうしても解かなければならないと思ってきた。というのは、この性分のせいで、どれだけ迫害や意地悪を受けたか測り知れないからである。つまり損な性分を、どうして自分が持つことになったかという物語を、自分で知りたいと思ってきたのである。

 この謎は、この10年か20年のあいだに、ほぼ完全に解くことができたと思っている。それについてはまた話す機会があると思うが、今日はとにかくそういう私の性分から出てきた話をしよう。

 

 内田樹氏の書評に対する私の反論は、すでに読んでいただいたことと思う(本HPの「母性とフェミニズム」の中の「8 自著自薦」の中の「(2)『フェミニズムの害毒』の中にある)。

 彼の『ためらいの倫理学』(冬弓舎)の中の、自分について書かれた部分だけでなく、関心のある箇所を少し読んでみたが、中でもとくにびっくりしたのが、藤岡信勝氏に対する批評の部分であった。

 内田氏の「あとがき」には

 

藤岡の本(『汚辱の近現代史』徳間書店、一九九六年)を読んで、ずいぶんひどいことが書いてあるので驚いた。どうしてこういう人が東大教授になったり、ある種の思想運動の指導者になれたりするのか不思議だ。日本というのもディープな国である。(p.261)

 

と書かれている。

 これは私に対する悪口など比較にならないほどの悪口雑言の類に属する。ほぼ全面否定であり、軽蔑を隠していない。本文では「バカ」呼ばわりしている。多少とも内田氏を信用している人で藤岡氏を知らない人が読んだら、「藤岡という男はよほどひどい人間だ」と思うかもしれない。その著書を読んでみようと思わなくなるかもしれない。

 私は藤岡氏とはいささか面識もあり、本も読んでいて立派な人だと思っているので、そのあまりの落差に驚いた。とくに藤岡氏は若いときに左翼運動に参加し、その後マルクス主義のマインドコントロールを自立で脱していった経験も語っているので、私と共通の人生経験を持っている点、共感するところも少なくない。

 内田氏が問題にしている『汚辱の近現代史』(徳間書店)は、中学の歴史教科書の多くにおいて日本の明治維新以来の描き方がきわめて歪められていることを批判した上で、事実を公平に捉え直し、正しい事実を教えることを提唱している。全体としてきわめてまっとうな主張をしている本である。

 たとえば、教育出版や大阪出版の『中学歴史』の近代史を扱う章の扉には、反日的な心理を持っていたフランスの画家ビゴーの挿し絵が使われている。しかもそれに対する教科書の著者の偏った意見を反映したコメントもつけられている。著者たちは、当時の日本人や日本国家について、ことさらに悪いイメージを植え付ける意図を持っているとしか考えられない。

 そのように日本という国をことさらに悪く描く態度の裏には、コミンテルンの指導下にあった日本左翼のイデオロギーによる偏向があったことを明らかにした上で、藤岡氏はそういうマイナスのイメージを「まず」子供たちに植え付けるという教育に対して、疑問を投げかけているのである。

 教育においては、まず基本の型や知識、基本となる正義感や正しい事実を教え、そのあとで「正しい」とされていることに対する疑いや批判精神を教えるのが、正しい順序というものである。

 この順番を反対にして、最初に疑いやマイナスイメージを教えてしまうと、あとからではプラスのイメージや信頼感・正義感を教えることができなくなってしまう。

 よく子供たちに批判精神を教えようとして、最初から「すべてを疑え」とか「大人は信用できないぞ」とか「正義を疑え」「正しいなんてことはないんだ」などと、したり顔に教える「教育者」がいる。

 しかし、そういう教育を受けた子供は、権威を否定したり、破壊することは得意だが、よりよいものを建設することのできない人間になってしまう。

 

内田氏の批評は決して公正ではない

 藤岡氏は、なんでもいいから日本に誇りを持った人間を作り出せなどという乱暴なことを言っているのではない。正しい誇りを持てるような教育をすべきだと言っているのである。そのためには、日本の歴史を公正に正しく教えよと主張しているだけである。まず暗黒面を印象づけて、マイナスのイメージを強烈に持たせるのが、正しい教育の順番かと問うているのである。

 この主張は、どこから見てもまっとうであり、私は完全に正しい議論だと思う。この主張のどこが「ひどい」のか、私にはどうしても分からない。しかも内田氏は、部分的におかしいといった批判の仕方ではなく、ほとんど全面的に軽蔑しきっている口調なのだ。この態度は、どう見ても公正とは言い得ないと思う。

 内田氏の藤岡氏に対する批評が公正を欠いていることは、たとえば次の箇所によく表われている。

 

 自国の歴史の暗部について「恥辱」の気持ちを持つことは、その栄光に対して「誇り」をもつことと同じく大事なことであると私は考える。

 無知に基づく「誇り」はただの夜郎自大にすぎず、そのような「誇り」に昂然と膨れ上がっているものは、決して藤岡が夢見るような「国際的威信」を得ることができない。(p.27)

 

 これを読むと、藤岡氏が「自国の暗部について教えるな、栄光についてのみ教えよ」と言っているかのように誤解する人が多いのではなかろうか。もしかすると、内田氏自身がそのように誤解している可能性もある。

 もちろん藤岡氏はそんな無茶なことは言っていない。藤岡氏が主張していることは、自国の暗部ばかりを強調して教えるのは不当であるということと、最初に悪いイメージばかり教えると子供たちの人格に対して悪影響を与えるということである。

 事実、こういう自虐史観で教えられた子供たちが、日本という国は「きたない」「ずるがしこい」「心が狭い」「卑怯な」ことばかりしてきた国だという認識を持ち、世界に対して罪意識ばかり持たせられているのだ。

 

 内田氏は

 

 教育学者である藤岡の教育観で、私が同意できないもう一つのことは、藤岡が教科書の提供する情報の影響力を過大評価していることである(p.29)

 

とも書いている。

 しかし、私の経験から言っても、藤岡氏の心配は決して過大とは言えない。たとえば学生との対話の中で、私が「南京の30万人虐殺という事実の証拠とされた写真などには、でっち上げの疑いが濃いんだよ」と言うと、学生の中には「だって先生、教科書に書いてあるんですよ、教科書に間違いがあるはずがないでしょう」と反論する者もいるほどである。教科書の「権威」は子供にとってはすごいものがあるのだ。

 

 しかも、子供は教科書だけを読んで自習するわけではない。先生がそれをもとに「教える」のである。先生は当然、子供に対してある種の権威を持っている。先生が「正しい」こととして「教える」ということのインパクトは大きい。真面目でよく勉強する子供ほど、影響を大きく受けるのである。

 内田氏は教科書だって真面目に勉強する子供はそういないとした上で、「百科事典を読んだ」という藤岡氏を「私が知るかぎりはじめて」と馬鹿にしているが、勉強好きで真面目な子供にはよくある現象である。私自身はそこまで根気がなかったし、百科事典を買ってもらう余裕などなかったが、子供時代にそういうことをした人間を私は多く知っている。それは優秀な人の子供時代にはありがちな知識欲の表われであり、決して軽蔑すべきことではなく、むしろ褒めるべき事柄である。

 

 内田氏は「恥辱」の気持ちと「誇り」は両方とも大事だと言うが、最初に「恥辱」を持たせられた人間は、「誇り」を持つことがたいへん難しくなる。ただ評論家風に「両方とも大事だ」と公平そうに言うのは、偽善というものである。

 また藤岡氏は、「無知に基づいて誇りを持たせよ」などと一言も言っていない。むしろ逆に「正しい事実を知らせることによって誇りを持たせよ」と主張しているのである。東京裁判史観によって歪められた「史実」の嘘を正すならば、本当の「誇り」を持てるようになると主張しているのである。

 このように、相手の主張を不当にねじ曲げて悪く描いておいて、それを批判するやり方を私は「劣等化批判」と呼んだことがある。これはフェアな批評家なら決してやらない、やってはならない、最も卑劣なやり口である。

 内田氏は、公正な批評をモットーにしているような顔をしながら、こういう不公正な批評をしているのだ。

 

藤岡氏は「バカ」か

 内田氏の批評の圧巻は次の箇所である。

 

 私たちは知性を検証する場合に、ふつう「自己批判能力」を基準にする。自分の無知、偏見、イデオロギー性、邪悪さ、そういったものを勘定に入れてものを考えることができているかどうかを物差しにして、私たちは他人の知性を計量する。自分の博識、公正無私、正義を無謬の前提にしてものを考えている者のことを、私たちは「バカ」と呼んでいいことになっている。

 

 驚いた。ここを読んで私は正直驚き、おそれいった。これほどの自信家は、そうはおるまいに。

 要するにこれは、もってまわった言い方だが、藤岡氏を「バカ」だと断じているのである。

 どんな物差しを使うにせよ、自分の物差しに絶対の自信を持ち、それで他人の知性の度合いを測るなんてことは、神ならぬ人間には本来できないことだと私は思っていた。そして、その「計量」によって、他人を「バカ」と呼んでもいいと主張するとは、ものすごく思い上がった精神の持ち主ではなかろうか。

 以前、小谷野という男が、私とある人の知性を比較して「どちらが知性が多い」とか「少ない」と批評したことがあったが、それに対して私は「他人の知性を比較するのは、知性がない人間のすることだ」と言ってやったことがある。

 内田氏に対しても言ってやりたい。「他人をバカ呼ばわりできるとは、お前はどこの偉い様か。お前の方がよほどバカではないか。だってお前の定義によれば、自分の物差しを無謬の前提にして、他人の知性を測る者はバカと呼んでいいことになるのだから」と。

 だいたい、「これこれの者をバカと呼んでいいことになっている」などと、誰が決めたのか。これほどの思い上がりを私はあまり見たことがない。

 人間、相手をやっつけたいと思うことがあるのは、やむをえない。ましてやイデオロギーが違ったり、考えが大きく異なる人間に対しては、悪く言いたくなるのも無理はない。しかし「知性を計量する」などという、本来不可能なことを僭称してまでも、他人をバカ呼ばわりするのは、知性も品性もない人間の所業と言うべきだろう。

 内田氏は藤岡氏の本には「ずいぶんひどいことが書いてある」と言うが、まるで逆さまである。私が見るところでは、内田氏の批評の仕方こそ「ひどい」「ひどすぎる」と言うべきだ。

 

 ところが、なんと、この本の表紙の帯には、「法政大学教授・評論家 鈴木晶」(バダンテール『母性という神話』の訳者)の推薦文が載っている。曰く

 

こういう「大人」に、私もなりたい

 

だと。

 こんな知性も品性もない人間のどこが「大人」なのか、私には分からない。仲間褒めもいいかげんにしないと、醜い。