母性

 

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(3) 母性論に反発する人たち ──「責められている」という反応 ──「るみねこ」と「リュウジ」の書評を例に

         (平成19年1月12日初出)

 

 私が父性に関する本と母性に関する本をそれぞれ数冊ずつ書いていることは皆さんご存知のとおり。最初の『父性の復権』を出版してからちょうど10年が経つが、この間、数百にのぼる反応に接し、じつに興味深いことを経験した。というのは、父性論と母性論とでは、それに対する反応がまるっきり違うのである。つまり、問題を指摘された父親たち、母親たち自身の反応が、正反対と言えるほどに異なっていたのである。一言で言えば、父親は反省するが母親は反省しない、と言える。

 『父性の復権』以来の父性論に対する男性たちの反応は、じつに素直、いじらしいほどに素直である。父性というものを体験していない一部の人々は拒絶反応を示したり、あからさまな敵意を見せるが、父性を少しでも体験している圧倒的多数の人たちは、私の言っていることがすぐにわかって率直に反省し、「やっぱり問題だったか」「子供に関わってこなかったからなあ」といった感じである。そして「では、どうしたらよいか」というので、改めて子供と関わったり、「オヤジの会」を作って活動したりと、前向きの行動をとるようになる。

 ところが、母性論に対する女性たちの反応はまったく異なっていた。もちろん全面的に賛成してくれる女性たちもいたが、それらの人たちはたいてい母性が十分にあり、子供が可愛くて仕方なかったという人たちである。

 しかし、子供が可愛くないとか、子育てが面倒だと感じている女性たちは、私の母性論に対して、強い反発を示したのである。反発どころか、かたくなに拒否する感じである。全面的に賛成する人たちは、今の自分が正しいと思っているから当然反省はしない。反発や拒否する人たちも反省はない。つまり、結局のところ、反省する女性はほとんどいなかったのである。さらにその上に興味深いのは、父性が足りないと言われて夫を弁護する妻がほとんどいないのに対し、母性が足りないと言われると、妻を弁護する夫が多いということである。

 私の母性論に対する感情的またはイデオロギー的反発の典型がインターネット上に発表されているので、取り上げてみよう。

 

 アマゾン書店の「カスタマーレビュー」に、『母性崩壊』に対する否定的な 書評が二つも載っている。どちらも星一つという全面否定と言ってもよい評価であ る。出版以来6年以上も経ち、またすでに原本は絶版になっているのに、今ごろに なって全面的に否定する書評をわざわざ書く人がいるというのは驚きである。 『母性崩壊』という題名の本書を読もうと思う時点で、このテーマについて 無関心ではいられない心理状態にあったのであろう。ただし、その書評は二つとも 完全な的はずれである。

 

 まず「るみねこ」の書評を見てみよう。「わかってないなあ」という題名であるが、分かっていないのはお前の方だろうというような内容である。

 子育てについて、子育て中の多くの母親が感じる痛みや喜びについて、また女について、もしかして人間についても・・・本当のとこがわかってないなあ。

女性や母性というものに関して、作者なりの理想像というか、そうあって欲しいと願う確固たる願望(妄想)があるのは感じられる。

人間が人間を育てるのだもの。

「可愛い」か「可愛くない」かとか、「幸福」か「不幸」かのような、両極に割り切れる場面って、人生にそう多くないのではないですか?

人間だから、振り子のように揺れて良い。

「わが子が可愛い、可愛い」の気持ちに、「歯がゆい」「しんどい」「自分の時間がほしい」の弱音が生まれて来たからといって、人間ですもの、当然じゃないですか。

 母親が子育ての場面で感じる「痛みや喜び」「わが子が可愛い」という気持ちのほかに「歯がゆい」「しんどい」「自分の時間がほしい」という気持ちもある、ということぐらい、私だって十分に承知している。そのことが書いてないからといって、「この著者は母親の気持ちが分かっていない」とか「人間について分かっていない」と判断してしまうのは、少なくとも軽卒である。私はまったく次元が違うことについて論じているのである。

 私が書いていることは、日頃の子育ての現場で母親たちがどう感じ、どう悩み、どうやってしんどさを克服していったらいいのか、という育児相談的な次元の問題ではない。母性が壊れているとしか言えないような、本当に深刻なケースについて、その原因と対策を論じた本である。日常的な子育て論ではないのだ。

 「可愛い、可愛い」だけが正解、それ以外の人間らしい感情は減点、減点、減点・・・ハイ、貴女の母性は崩壊しています、って、誰が決められるのでしょう。

 完全な読み間違いである。私は「可愛い」以外の感情を持つと「母性崩壊」だなどとは一言も言っていない。虐待にまで至るようなひどい母性崩壊について論じているのであり、日常的に感じられる「はがゆい」「しんどい」という感情について論じているのではない。

 が、そのような読み間違いには、それなりの理由があるものである。ひどい読み間違いには、たいてい心理的背景がある。もしかしたら、私が挙げている母性崩壊の三つの原因のいずれかに当てはまる人ではないのか。だから、自分が母性崩壊だと言われたと感じたのではないのか。文章から察するに、私が挙げた負けん気の強い「ロゴス型」のタイプに属するようである。この型の女性は子育てが不器用な場合が多い。しかし、プライドは高いので、自分の母性のあり方に問題があるとは絶対に認めない。

 自分の欠陥について率直に反省するのではなく、故意の(または無意識の)読み間違いをして、相手を貶めるというのは、このタイプの女性の、よくある自己正当化のやり方である。それによって、自らは反省をしなくても済んでしまう。問題のある母親というものは、たいてい自分に問題があるということを、がんとして認めようとしない。批判されることを 「責められる」と感じてかたくなに拒絶する。それはじつは自分のマイナス点をどこかで無意識のうちに感じ取っていることの裏返しである。その分、拒絶反応が強く、始末に悪い。可愛そうなのは子供である。

 

 つぎに「リュウジ」の書評を見てみよう。「男に何で母性を語る資格があるのだ」という題名である。

 しかしながら、子育てを自分でしていないことは、手に取るようにわかる。子どもを産んだこともないのは当たり前だが、少なくとも子育てに関わった人間であれば、こんな本は書けなかっただろう。乳児を抱えて一歩も外に出られない状況を一度でも経験されるとよかったのに、と残念だ。机上の考えだけでものを語ると、このようになる。こんな時代錯誤な考え方で、父性や母性、ひいては虐待の問題を語られるのは非常に危険だ。教育勅語的なものを感じた。虐待をされた人間が必ず虐待を繰り返すと決めつける強引さもさることながら、多くの女性を傷つけ、母親になることに二の足を踏ませたであろうことに、非常に危機感を覚えた。

 ひどく独断的な論評である。「子育てを自分でしていないことは、手に取るようにわかる」と決めつける「強引さもさることながら」、「机上の考えだけでものを語る」とどうして思い込んだのか不思議な人である。

 私が日本男性の中では例外的に子育てに密接に関わってきたことは、『父性の復権』『母性の復権』の記述、さらには『父親のための家庭教育のヒント』(2004年、日本教文社)の具体的な子育て体験を読めば十分に理解できる。1冊だけ読んで軽々に人を決めつけるようでは、他人を批評する資格がないと言わざるをえない。

 また私の『母性の復権』『母性崩壊』は、母性崩壊に苦しむ多くの女性たちとのカウンセリングの場での関わりの中から生まれたものであることは、そしていくつかの症例を提示しているところを読みさえすれば、間違っても「机上の考えだけでものを語る」とは言えないはずである。この者は、拙著をきちんと読みもしないで批評をしていると考えざるをえない。

 「リュウジ」は「乳児を抱えて一歩も外に出られない状況を一度でも経験されるとよかったのに」と書いている。経験するしない以前に、町なかを見ただけでも、「乳児を抱えた」母親がいくらでも外出していることが分かるであろう。

 つまり、「一歩も外に出られない状況」とは、物理的原因によるものではなく、心理的な状況なのである。そのことも拙著にはきちんと書いてある。その点を「リュウジ」は理解できないので、「密室育児」「一歩も外に出られない」といったフェミニスト御用達の決まり文句を文字通り受け売りしているだけの、まさに「机上の空論」になっている。

 また、私は「虐待をされた人間が必ず虐待を繰り返すと決めつけ」ていると言うが、「虐待をされた人間が虐待を繰り返す」というのは、必ずとは言えないにしろ、法則的なものであり、それはカウンセラーの恐らく99パーセントが認めている事実である。

 そういう事実を指摘すると、その指摘が「多くの女性を傷つけ、母親になることに二の足を踏ませる」という反論が出てくるのも、例によって例のごとしで、法則的である。子育てが不得意だったり嫌いだったりするフェミニスト的女性たちは、「母性がうまく働いていない」と言われると、謙虚に反省してみるのではなく、「否定された」とか「責められた」と勘違いし、「傷つけられた」とわめく。あげくのはてには、「母性本能は誰にも備わっているものではないのだから、なくてもいいんだ」と開き直る。結果、子供に対する間違った扱いがいつまでたっても糺されない、ということになる。

 そういう彼女・彼らの母性本能否定説がいかに間違っているかについて、『母性崩壊』の中で私はこう書いている。

「母親ならば自分の子が可愛いのが当たり前」(可愛くないのは母性が崩壊しているからだ)という母性崩壊説が母親を追いつめて、子どもを虐待させる原因になっていると主張する人々がいる。

 続いてこう書いている。

 いったいどちらが正しいのか。

 母性本能などもともと存在しないのか。それとも母性本能は存在するが、何かの原因で壊れてしまっているのか。

 そのどちらと判断するかで、対策はまったく正反対になる。

 前者ならば、「母親なら子どもが可愛いはず」と言うことが、ますます虐待を多くする原因になってしまうであろう。まして「母性が本能だ」などと言うことは、とんでもない間違いを犯していることになる。

 後者ならば、「母性は本能」という前提に立って、母性本能が崩壊している原因を突き止めて対策を考えなければならないことになり、「母性神話」原因説は重大な過ちを犯していることになる。

 ことはきわめて重大であり、かつ緊急を要する。いったい、どちらが正しいのか。

 私の考えは母性本能説である。いま起きている幼児虐待は、母親の母性本能の壊れとして見ていかなければならない。そうでなければ理解できない現象が多すぎるし、またそういう理解でなければ対策は決して有効にならないであろう。とくに「母性神話」原因説は決定的な間違いを犯しており、それでは母も子も救えない。

 本書では「母性神話」原因説の誤りを批判すると同時に、さまざまな角度から母性本能の崩壊を分析する。そして母性を修復して、「子どもが可愛くない母」「母から可愛がられない子ども」をいかにしたらなくすことができるかを考えてみたい。

 虐待をされた女性が母親になると虐待するという傾向は事実なのだから、その事実を直視した上で、対策を考えるのが正しい方法論である。この本には、ただ母性が壊れているという診断だけでなく、壊れた母性本能を取り戻すことは「できる」と書いてあり、その対策や実例まで書いてあるのだから、「非常に危機感を覚え」る必要はさらさらないのである。

 

 さて、最後に最も肝心なことを述べよう。私と彼・彼女らとの決定的違いはどこにあるのか。それは彼・彼女らが母親の立場のみに立って事態を見ているのに対して、私は子供の立場に立って見ているという点である。すなわち、フェミニストは母親(すなわち育児が不得意なフェミニスト的女性)の気持ちを楽にしてやることしか考えていない。「いろいろあっていいんだよ」「マイナスもあっていいんだよ」と。それでは、マイナスを受ける子供は救われない。

 「子供の立場」という視点を入れてくるならば、男性が母性について語ることの必要性・必然性も理解できるようになるだろう。

 「男に何で母性を語る資格があるのだ」と言うが、男性だって、妻と子供の関係について観察するし、意見を持つ。また自分の子供時代に母親との関係で、悪い母性や良い母性を体験して、母性について考えることもある。私のように、母親の立場にある女性たちから数多くの相談を受けた経験のある者もいる。というわけで、男性が母性を語る資格は十分にあるのだ。女性自身が語るよりも、客観的に見ることができるという意味では、女性自身が語るのとはひと味違った母性論が語られるという意味で、有益ではなかろうか。かたくなに男性の母性論を閉め出すような言説は、偏狭と言われても仕方ないのではないか。

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