母性

2 「密度濃く可愛がる」は可能か 

    ─松原隆一郎氏への手紙

 

はじめに 「格闘技」について

 松原隆一郎氏のホームページ「思考の格闘技」の最新欄に、拙著『フェミニズムの害毒』に対する反論が「感想」という形で載せられている。

 これに対して私の方からも「感想」を述べたいが、その前に、松原隆一郎氏の「格闘技」という言葉について若干の説明をしておきたい。

 松原氏についてあまり知らない人は「格闘技」という言葉がいきなり出てくると異様に感ずるかもしれない。氏は学者としては珍しく空手や柔道をやっているそうで、「格闘技」という言葉には、ルールを重んじてフェアに対戦することをよしとする意味が込められていると私は理解している。

 ついでに言えば私も学生時代には柔道部に属していたし、スポーツは大好きで、人一倍フェアプレーの精神を重んじたい方なので、汚い批判をする輩は大嫌いである。その意味でも、松原氏の姿勢には好感を持っている。

 さて、格闘技の土俵として設定したHPの中で、氏が内容的には私への反論を「感想」と銘打っているのは、あまり格闘だとか論争だとは言いたくないという配慮が感じられる。その裏には私との間には基本的にはそんなに違いがないという認識があるからであろう。

 私も氏のこのHPを読んでみて、氏とのあいだには根本的には大きな意見の違いはないと確認できた。氏は私のフェミニズム批判を「貢献」だとか「反対ではない」と言ってくれているし、私の方は氏の子どもさんへの配慮や保育所の使い方については高く評価できる。また私も氏と同様に専業主婦というあり方と「外に出て働く」女性のあり方とを同等の価値と見ている。これらの基本的な点では、もちろんニュアンスの違いはあろうが、氏と私のあいだには根本的な対立はない。

 

対立している論点

 対立している論点は、子どもを保育所に預ける場合に、母性(一般的には親の愛情)が不足しないかという問題に関係している。その場合、弁護論は、なからず「保育所から帰ったら集中的に可愛がればよい」「密度濃く愛情を注げば取り返しがつく」と言う。それに対して私は「愛情というものは密度濃く与える」などということはありえないし、もしあったとしても無理が生じたり、かえってストレスを与えかねない、「愛情というものは親がゆったりした気分の中で優しい雰囲気を与えるというものだ」と主張している。

 これに対して、松原氏は、自分の子どもを保育所に預けている体験をもとに、「密度高く」可愛がることは「可能だ」と反論している。また、そのためにこれこれの配慮や実践をしていると主張している。

 私はこの反論を読んで、私の説明がまだ不十分だったことに気がついた。

この問題は松原氏にも、また世間一般にも、理解してもらう価値があると思うので、以下若干の説明をしてみたい。

 

よくある誤解に一言

 本論に入る前に、よくある誤解をまず払拭しておきたい。私の基本的な主張は「乳幼児にとっては母親の存在は非常に大切であり、この時期に保育所に預けることは極力避けるべきだ」というものである。したがって私はフェミニズムの理想を表すスローガン「乳幼児の母も働ける社会に」は間違いで、正しくは「乳幼児の母は働かなくてもよい社会に」と言うべきだと考えている。

 しかし保育所に預けて働かなければならない母親もいるが、その場合には「保育所にはなんの問題もない」と強がったり開き直ったりしないで、起こりうるマイナスを十分に研究し、できるかぎりの対策を考えるべきだ、という立場である。(その危険の可能性は車を運転する場合の危険くらいではなく、原子力発電所や遺伝子操作の危険に匹敵すると考えている。)

 この主張を読んで「林の保育所に対する敵意はすさまじい」などと見当はずれの敵意をぶつける愚か者もいるが、私は保育所に対する手ばなしの賛美は危険だということを訴えているのである。(この点については『フェミニズムの害毒』草思社、の4章「保育園神話の危険度」を参照されたい。)

 母性の大切さを言うと、フェミニスト系統の人々はかならず「女性を母性に閉じこめるな」と言うが、そういう議論に対する反論は『母性の復権』(中公新書)と『母性崩壊』(PHP研究所)に書いてあるので、それらを読んでほしい。

 

1 「いる母」の必要性

 では本論に入る。

 出発点は、『主婦の復権』にも書いた次のような「いる母」がいなくなりつつあるという認識である。私は『主婦の復権』の32頁以下にこう書いた。

<<このごろ大学で女子学生に接していて痛切に感じることは、母性に飢えている学生が非常に多いということである。

 いま日本で、母親である人たちが母でなくなっているという感じを受ける。そういう母親たちは、母としての役目は最低限やっている。家事をして、子供の世話はしている。子供が病気になれば看病もする。しかしその人たちには母性が感じられないのである。

 そういう母に育てられた学生たちを見ていて、私は「する母」と「いる母」という言葉を考えついた。何かをしてくれる母はいる。しかしそれでも「母」を感じられないのはなぜか。それは「いる母」がいないからである。「いる」というだけで子供が安心するような母、子供に対して本当に心を向け、関心をもって見守っている「いる母」が少なくなっているのである。

 子供が学校から帰ってきて、家にお母さんがいるという、その安心感、喜び、心が満たされるという経験をしていない子供が増えているのである。

 レポートを書かせると、感想の中で「する母」と「いる母」について取り上げる学生が一番多い。典型的なレポートを引用する。(『主婦の復権』講談社、32〜33頁)>>

 として、保育所に預けられていて「淋しかった」という学生の思い出を引用している。これについて松原氏は「みじめな経験」「だけ」を紹介していると批判するが、私の議論の趣旨は両方の反応を公平に掲げて読者に比較判断して下さいというものではなく、「みじめだった」という意見が相当数出てくることの意味を考えてほしいという趣旨である。だからこれを一方だけを引用するのは不公平か否かという問題として論ずるのは不適当だと思う。

 さて、こういう学生たちが異口同音に言うことは、「私は、自分が幼いころ母が働きに出ていて、淋しい経験をしたので、自分が親になったら、子供が小さいうちはなるべく一緒にいたいと思っている」(同、34頁)ということである。これは田中喜美子氏が批判するように「淋しいと思った?」と「誘導尋問」して出てきたことでは決してない。学生たちが問題を自分で選び自発的に書いているのである。

 こういう言い分は「働く母」にとって都合の悪いことなので、なんとか圧殺しようとしたり、「恣意的な引用だ」とか「誘導尋問の結果だ」とか「それだけを引用している」などと、いろんなケチを付けられる。そういう批判はそういう意見を言う学生たちの主体性に対する侮辱だと思う。彼女たちは非常に主体的に「考えている」のである。

 「働く母親」たちは「働いているお母さん、かっこいい」と子どもが言ってくれたということを、鬼の首でも取ったように発表する。しかし「かっこいい」と言ってくれるのは小学生までか、母親のフェミニズムに骨の髄まで浸されてしまった娘だけで、批判力がついてくる大学生くらいになると、自分の体験に照らして「子どもが小さいときに母親が働くのは子どもの心によくない影響を与える」と言うようになるのである。

 するとフェミニストたちは「そんな人間は自立していないからだ」などと暴論を吐く。保育所を経験した子ども自身が疑問を提出していることの重みをもっと考えるべきではなかろうか。

 さて、続けて私はこう書いた。

<< もちろん母がいつも家にいればよいという問題ではない。

 家にいても、子供がうるさい、面倒だという態度を取りつづける母親もいる。そういう母親に育てられると、子供は自分が余計者であり、邪魔者だという感じをいつももつようになり、母に愛されているという感じをもてない人間になってしまう。人を愛することができなくなるのは言うまでもない。何かをしてやる母も大切だが、それ以上に大切なのが「いる」だけで子供の心が安心するような母のあり方である。(同、34頁)>>

 これでお分かりのとおり、私が保育所が問題だという場合には、単に保育所の中に問題があるとか、注意して預ければよいというだけではない問題を感じているからである。単に「いる」というだけで子どもの心が安定する、ということが確かにあるのである。そう言うと、すぐに「どんな悪い母親でも、いさえすればいいのか」と屁理屈を言う者がいるが、もちろん「ほどほどに良い母」good enough mother であることは前提として考えられている。(この点については『母性の復権』42頁参照)

 さて、このように言うと、松原氏が「今回の論争の争点」だと言う、「保育所に預けても、密度濃く可愛がれば問題はない」という言い方が出てくるのである。

 この「密度濃く可愛がる」という言い方は欺瞞であり、ごまかしだと私は批判した。その文章を読んでいない人や、『フェミニズムの害毒』を持っていない人のために、もとの文章をここに引用しておく。当該の文は4章「保育園神話の危険度」の中にあり「『密度濃くかわいがる』はごまかし」という小見出しがついている。

 

2 「密度濃く可愛がる」に対して私が批判したもとの文章

<<保育園に子どもを預けることが批判される最大の論点は、母性、母親の愛情が足りなくなるという問題である。それに対する弁護論は決まっていて、かならずこう言われる。「母親が帰宅してから、集中的にかわいがればよい」「密度濃く愛情を注げばよい」。これがごまかし言葉なのである。宣伝コピーによくあるように、ムードではその気にさせるが、しかしよく考えてみると意味不明なのである。

 いったい「集中的に」「密度濃く」かわいがるとは、具体的にどうすることなのか。今日あったことを聞いて上げるときに、早口で話させて、短時間にたくさん聞いてあげることなのか。だっこするときに、ギュッと強く抱くことなのか。食事の支度をしながら、オンブでもして、話を聞いてやることなのか。一緒に風呂に入りながら、たくさん体にさわってやることなのか。そんなことをすれば、子どもの方は愛情を感ずるどころか、あくせくした、あわただしい雰囲気を感じて、むしろストレスになりかねない。このように、具体的にどうすることなのかと質問してみれば、「集中的に」「密度濃く」愛情を注ぐという言葉のごまかしが暴露される。愛情というものは、短時間に「集中的に」「密度濃く」与えるなどということは不可能なのである。「おかあさん」がゆったりした時間の経過の中で温かく接してこそ、愛情が感じられるのである。

 松原隆一郎は「帰宅時の母親が密度高く接しても取り返しはつかないと、なぜ断言できるのか」と、語気鋭く私に迫った。それなら逆に聞きたい。

「密度高く接するとはどういうことか?」

「密度高く接することが仮に可能だとして、はたしてそれで取り返しがつくのか?」

 実際には働いている母親が保育園から子どもを引き取って家に帰るころには、母も疲れ子どもは眠いという状況の中で、食事をさせて風呂に入れるだけで精いっぱいというのが現実であろう。

 「密度濃く愛情を与える」などということが万一可能だとしても、そのためには相当な体力と工夫と努力が必要になろう。それだけの余力が母親に残っているのは、毎日勤めに出なくてもよい学者などの恵まれた母親だけである。普通に働いている母と子の毎日は「戦争のよう」だと言う人も多い。(『フェミニズムの害毒』156〜7頁)>>

 

3 松原氏の反論の文章

 この批判に対して松原氏は次のように反論している。

<<これが今回の論争の争点なのであろう。私は「密度濃く」というのを、「緊張を込めて」「気を入れて」という意味で用いている。林氏はいくつもの例を挙げているが、「意味不明」というところ見ると、この意味は思い至らなかったようだ。というか、氏は気持ちを込めて人と接するということがない方なのかもしれない。密度というのを「会話の量」「抱く力」の強さのことと考えておられるらしいからだ。それなら取り返しのつかないのは当然だ。私はむしろ、長時間接していても、心ここにないような接し方しかできないのならば、逆効果だと思う。林氏のいう「母性の崩壊」とは、私なりに言うと、子育てにおいて子供の要望に緊張して聞く耳をもつことができなくなった状態のことである。私どもの夫婦でも、家内が緊張が切れそうなとき、私がなるべく子供を連れだして銭湯にいったり散歩して家内を休ませるようにしている。家内を見る限り、保育所にやっている分だけ、気持ちを込めて(「早口で」ではない)本を読んでやったり一緒に歌を歌ったり、「闘いごっこ」をしたりしている。私自身も、四六時中気持ちを込めて子供と接するのは無理だと思う。>>

 以上が松原氏の反論である。

 要するに氏は、私が「密度濃く」の意味として「会話の量」や「抱く力」という量的な意味しか思い至っていないようだが、もっと質的なことがあるだろう、質的なこととは「緊張を込めて」「気を入れて」「気持ちを込めて」という意味だと言っているのである。

 

4 松原氏への私の再反論

 氏は「緊張を込めて」「気を入れて」「気持ちを込めて」という原理を、私の出した「量的な原理」とは違う原理だと思い込んでいるようである。

しかし「緊張を込めて」も「気を入れて」も私がさっき言った原理、すなわち「する母」「する父」の原理で最善の努力をしているということであり、所詮は量的な原理なのである。それらをも「量的な原理」の中に入れるのは無理があるというなら、「前向き」の「積極的な」原理と言い換えてもよい。「力を入れる」方に一生懸命のやり方だとも言い換えることもできる。言葉遣いではなくて、私が言わんとしている事柄に注目してほしい。

 要するに「無」の原理というか、何もしなくても、「やさしく居る」というだけで子どもの心によい作用をする、という面も大切なのである。

 そのことは、先に引用した私の文の最後に書いてある。もう一度引用するとこうである。愛情というものは「『おかあさん』がゆったりした時間の経過の中で温かく接してこそ」感じられるのである。

 要するに母性というものは、力を入れて一生懸命にやるという原理にはなじまないものである。「がんばって取り戻そう」という姿勢そのものに問題があるということである。「力」の原理や「強さ」の原理とは異なる原理なのである。

 

5 私の娘の意見

 このことはなかなか理解するのが難しいと思うので、多少とも参考になることを願って、私の娘(既婚・大学院在学中)の言葉を引用する。(この原稿を読んで意見を寄せてくれた)

<<私は一人っ子なので、幼い頃、家では父に遊んでもらう(あげる?)以外は一人で遊ぶことが多かった。

 母には本を読んでもらったり、一緒に折り紙を折ったり、母がお花を生けるのを見ながら「お手伝い」したりと色々なことをしたが、一人で過ごす時間もかなりあったように記憶している。

 しかし、それは完全に「一人」ではなく、同じ部屋で母は私の服を縫ってくれていて、私はそれを視界に入れながらお人形さん遊びをするとか、母が縁側に座って本を読んでいるのを時々見ながら、お庭でおままごとや水遊びをしていた。

 この母の目の届く範囲で「安心して」「のんびり」遊ぶという体験は、母子の信頼関係を築くと同時に、母子一体感からの緩やかな自立の過程でもあるのかもしれない。>>

 また娘はこうも言っている。

<<最近増えているのは子供と常にいっしょに何かをする母であり、その傾向は教育ママに顕著なようである。とくに一人っ子の場合、いつも母親と何かしているらしい。

 こういう態度はまじめな働く母に顕著で、母が家にいる間は、それこそいない時間を取り戻そうと必死に一緒の時間を過ごそうとする。

 それは一種の義務感とも思え、のんびり育った私から見ると、親も子も疲れそうな気がしてしまう。気負わず自然にやさしくされて初めて、子供は母の愛情を感じるのではないだろうか。

 「ゆとりの教育」が叫ばれる中、学校では「ゆとり」の結果学力が低下し、家庭教育は「ゆとり」とは対極の「効率主義」へと向かっているように思える。>>

 

おわりに

 もちろん「する」原理も大切であり、どちらがより大切かという問題ではない。「する」という点では松原氏のご夫婦は(自身で言っておられるとおりなら)「子への配慮」ということを含めて最善の親の部類に属するようだ。それはそれでよいことだが、その他にまだ大切なことが、すなわち「いる母」「いる父」という大切なものがあるということを私は訴えたかったのである。

 松原氏は「母性の崩壊」とは「私なりに言うと、子育てにおいて子供の要望に緊張して聞く耳をもつことができなくなった状態のことである」と書いている。たしかにそういう場合もあるのだが、逆の場合の方が深刻なのである。逆の場合とは、緊張はしすぎるほどしているが(一生懸命だが)、「どうしても子どもが可愛くない」という形で現れるのである。緊張を解く(力を抜く)ことの方がむずかしいのである。この点は、武道をやっている氏には分かってもらえるのではないだろうか。

 「母性崩壊」にもいろいろな型があるという点については、拙著『母性の復権』(中公新書)と『母性崩壊』(PHP研究所)(前者は母性についての原理論に重点を置いており、後者は応用編であり現実の母性崩壊の原因診断と処方に重点を置いている)を、とくに後者の中の「母性崩壊の三つの型」をぜひ読んでみてほしい。

 『父性の復権』のときもそうだったが、「では具体的に父親は何をしたらいいのですか」と質問される。たしかに父親がよく子どもを遊んでやるとか社会規範を教える、母親が一緒に料理を作ったり本を読んでやるというように、何かを一緒に「する」ことも大切なことである。しかし父がどっしりと「居る」だけで、また母がやさしく「居る」だけで子どもの心が安定するといった面が、もっと一般に理解されるようになることを、子どもたちのために切に望むものである。