母性

1 解体する母性本能 ─ 修復の手だてはあるか

(『中央公論』平成11年11月号掲載、『母性の復権』(中公新書)と『母性崩壊』(PHP研究所)のエッセンスである)

 

子どもを殺す母親たち

 ついに起きたか、という感想を持ったのは私だけではないと思う。16歳にもなる実の息子を殺害する母親が現われたことは、世間に大きな衝撃を与えた。しかし、子どもへの虐待に取り組んできた者や、母親たちの心の闇とつきあってきた者にとっては、重い気持ちにはさせられるが、驚きではない。

 それはある意味では起こるべくして起こった事件である。わが子を虐待する母がますます増えている。厚生省研究班の調査によると、92年から96年の5年間で虐待がもとで18歳未満の子ども328人が殺された。しかもその加害者のうち、もっとも多いのが実母であった。また児童相談所が処理した児童虐待の相談件数は、90年に比べて97年は7倍に膨れ上がった。

 しかし、そのように子どもが死亡して明るみに出るのは氷山の一角であり、その背後には膨大な数のいじめ、虐待が存在している。そういう「裾野」の上に、今回の息子殺害も起きたのである。

 16歳の息子を殺害した母親の動機が保険金目当てだとすると、幼児虐待とはまるで動機が違うと思われるかもしれない。しかし、その心理ないし病理の深みに注目してみるならば、両者の本質はまったく同じと言わなければならない。すなわち、どちらも深刻な母性解体を表わしているのである。

 

対立する診断・処方

 母親によるわが子の虐待の原因について、正反対の二つの診断が提出されている。

 一つは虐待が母性喪失または母性欠落によるものだという見方であり、これは小児科医や心理臨床家など多くの専門家によって支持されている。

 いま一つは、「母親なら子どもを可愛くてあたりまえ」と、母親に母性本能を要求することが母親の負担になり、母親を追いつめて虐待に走らせるのだという見方である。こちらはフェミニズム系統の心理学者やジャーナリストに支持者が多く、とくに新聞や雑誌の記事は圧倒的にこの立場から書かれていている。まさに「犯人は母性神話にあり」と言わんばかりである。

 診断が異なれば当然、処方ないしは対策も異なってくる。一方は母性本能を回復または復元させる手だてを考えるべきだと言えば、他方は母親に「母性本能なんてないんだから、子どもを可愛く思えなくてもいいんですよ」と、気を楽にさせてやることだと言う。このように、両者は母性本能について、まったく正反対の捉え方をしているのである。もし診断を間違えたら、事態は憂慮すべき方向に進んでしまうであろう。

 いま日本では、この対立する見方をはじめとして、ありとあらゆる育児論が氾濫しており、当の母親たちがとまどっている有様である。いろいろな意見が出されて研究し合うことは望ましいが、問題なのはこうした対立する意見同士のあいだで健全な論争がなされないままに、一方的な意見が声高に叫ばれていることである。とくに新聞の家庭欄や生活欄には、フェミニズム系統の「母性神話原因説」がキャンペーンのように一方的に掲載されており、とうてい公正な論争とは言えない状況になっている。

 その中では、「母性本能」という言葉を使うこと自体が悪であると言わんばかりの雰囲気さえ支配している。本当に母性本能は存在しないのか、また母性喪失という見方は間違いなのか。私はいまこそ「母性本能の解体」という観点から事態を見直すことが必要だと考える。いま流行している母性本能否定説が支配的になれば、子どもに対する母性不足を隠蔽し助長するという意味で大きな間違いを犯すことになり、日本の将来に禍根を残すであろう。

 

「孤立育児」「密室育児」原因説の間違い

 母性本能否定論者たちは、一様に虐待の原因を「孤立育児」「密室育児」「密着育児」に求めている。つまり母親が子どもと二人だけで家の中にいるという状況そのものが母親をイライラさせ、追いつめていくのだという見方である。

 しかし、核家族化は今に始まったわけではないし、夫が企業戦士であるために育児に参加しなかったのも、戦後の家庭に共通の特徴であった。もちろん父親不在の母と子だけの家庭生活はとうてい健康なものとは言えない。しかしだからといって、そのために子どもを虐待するというのは、たいへんな論理の飛躍であり、本当の原因を言い当てているとは言いがたいのである。

 だいいち、「孤立」「密室」「密着」と言うのは、言葉のあやであり、ごまかしでさえある。母子だけでいると必ず母子が「孤立」し、家や部屋が「密室」になってしまうわけではない。気持ちしだいでいくらでも友達は見つかるし、外に出かけることも工夫しだいで可能である。ところが、母性が壊れてしまった女性に限って、子どもと二人きりでいる状態が「息づまる」ものと感じられ、そのために家が「孤立」した「密室」だと感じられるのである。「孤立」した「密室」という感じ方は、母性喪失の原因ではなくて、むしろ結果なのである。

 また「密着育児」という言葉もあいまいな言葉であり、私が今まで臨床の場で出会った育児ノイローゼの母親たちはいずれも外見的には「密着育児」と呼ばれる状態にあったが、この母親たちはみな子どもに正しく「密着」できない人ばかりであった。おそらく「密着育児」と呼ばれているケースのほとんどは、母性本能が正しく機能していないケースであろうと思われる。

 そもそも「密着」しすぎることそれ自体が虐待の原因になるなどということはありえないのである。母親というものは母性があればむしろ乳幼児に関心を集中させ、乳幼児と「密着」しようとするものであり、ある意味では「密着」していて当然である。乳幼児と一緒にいることをことさらに不自然な「密着」と感じ、「いやだ」とか「耐えられない」と感じること自体が母性の解体を示しているのである。

 

「母性神話」原因説の間違い

 つぎに、「母親は誰でも母性本能があるのだから、子どもを可愛くて当然」という言い方が、母親を追いつめて虐待にまで追いやるのだという説も、まったく見当はずれである。子どもを可愛くないという母親はすでに母性が壊れているのであり、気にいらない理論が引き金になってイライラすることはありうるにしても、その理論が虐待の原因だなどということは決してありえないのである。

 たとえば、大日向雅美氏は、「子育ては母親一人がすべきだ」という考えを「近代的母性観」として批判し、こうした「母性神話」からの解放を訴えている(『子育てに出会うとき』NHKブックス)。氏は母親が「子育ては母親一人がすべきだ」と思いこんでいることが、子どもを虐待する原因、少なくとも遠因だと考ているようである。「母性神話」という言葉の意味はフェミニスト一人ひとりで少しずつ異なるが、いずれにしても「母性神話」が虐待の原因だというのは、見当違いもはなはだしい。母親の役割や責任が大きいと言われて、そのことが重荷になるというのは、その前に母性が壊れているからである。

 「母性神話」原因説を唱えるフェミニストたちが、そのように虐待の原因を見間違えるのは、虐待した母親の言い分を聞いて、その言い分をそのまま原因だと理解するからである。たとえば、武田京子氏はこう言っている。

 母性神話が横行しているために、相談の中で多くの母親たちが「私は母親失格なのでしょうか」「私は母になるべきではなかったのでしょうか」と訴える。

 この母性神話の金縛りのために、母親たちがイライラし、虐待に追いやられるのだという理解である。したがって「母性などないんだ、始めから、そんなものをこの世に持って生まれてきたわけではないんだ、優しさや思いやりなど、女性の専売特許などではないんだということを、私たち女性は、肝に銘じたいと思います。」(『わが子をいじめてしまう母親たち』ミネルヴァ書房、213頁)そうすれば、虐待はなくなっていくという理解のようである。

 大日向氏と武田氏とでは、「母性神話」の意味が異なってはいるが、「母性を持っていて当然」と言われることが母親を悩ませ、虐待にまで進むと捉えている点では同じである。

 たしかに、母性を喪失した母親にしてみれば、「母性を持っていて当然」と言われることは悩みのもとになろう。しかし、そういう子どもをいじめてしまう母親の悩みや言い分を聞いて、それが虐待の原因だと判断するのは、方法論的に間違っている。本人たちが意識していることが原因だとは限らないからである。「母性神話」に「縛られている」ことが虐待の原因だと言うが、その「縛られている」という感覚こそ、母性が解体しているなによりの証拠なのである。母性が解体しているからこそ、「母性」を要求されることが重荷や悩みの種になるのである。

 虐待は、「子どもと二人だけで密室に孤立しているから」とか、「母性を持っていて当然と言われることにいらだったから」などという表面的な理由から起きるのでは絶対にない。それは引き金にはなりうるが、そういう個々のきっかけの背後に、母性解体というもっと根深い恐ろしい事態が進行しているのを見逃してはならない。

 

本能の解体として捉えるべき

 「母性神話」原因説に立つ人々は、そもそも母性本能などというものは存在しない、という前提に立っている。しかしそれが間違いであり、母性本能は実在し働いているということは、私がこれまで何度も言ってきたことである。(『主婦の復権』講談社、『フェミニズムの害毒』草思社、参照)

 わが子の虐待という事態は、母性本能が解体した結果であり、母性が壊れてしまった母親にとっては、家の中に子どもと二人だけでいることが途方もなく辛いことに感じられてしまうのである。

 そのように言うと、すぐにこう反論する人がいる。「本能なら、子どもを産んだら必ず出てくるはずだし、そんなに簡単に壊れるはずがない。それなのに子どもを産んでも可愛くないというのはどうしてか」と。

 こういう意見は本能のなんたるかを知らない無知から来ている。本能というものは、発現するための条件がいるのであり(それを専門用語でリリーサーと呼ぶ)、また発現を妨げる要因が働かないことが必要条件になる。人間の母性本能は非常に微妙であって壊れやすく、夫との不和とか、「社会から取り残される」というあせりなど、ちょっしたきっかけで破壊されてしまうのである。

 

母性解体のさまざまな形態

 母性の解体はさまざまな形で現われる。いちばん分かりやすいのは、「子どもが可愛くない」という形であり、つぎに現われるのが「子どもが分からない」である。「可愛くない」より「分からない」の方が重症であるが、それはともかく、どちらも容易に「子どもが憎らしい」へと進んでいき、ついには虐待にまで至る。

 子どもへの無関心も、よく見られる症状である。望んでもいないのに子どもが生まれてしまったとか、他のしたいことがあるために子どもが邪魔であるという場合には、虐待の中でも「ネグレクト」と呼ばれる型になる。母親は子どもとほとんど関わらない、コミュニケーションもとらない、接する時間も極度に少ない。

 こうした母親の赤ちゃんは最近注目され始めた「サイレント・ベビー」になる。「泣かない、笑わない」だけでなく、あやしたり話かけたりしても、反応が乏しいのである。こういう赤ちゃんは心身の発達に重大な支障をきたすことが多い。もっとひどい場合には、母親が乳幼児に必要な世話もしない「放置」や「育児放棄」となり、子どもは餓死することさえある。(柳澤慧『サイレント・ベビー』クレスト社、1998年)

 これらの現象は母性本能が解体しているために起きているのであり、その観点から対策を考えるべきである。ところが、フェミニストたちは「母性、母性と、母性を押しつけることが間違いだ」と、まるで見当はずれの主張を繰り返している。そういう考えでは、かえって母性解体に対して適切な対処ができなくなり、母性解体を助長してしまうであろう。

  

間違った処方箋@「やりたいことをやれ」

 母性を押しつけることが虐待の原因だと診断する者は、処方箋としては「母親に母性を押しつけないで、楽にしてあげる」「自分の欲求に忠実になる」「自分自身に戻る」ことを勧めることになる。

 たとえば、武田氏はこう言っている。

 「私たち現代女性は、自我を育て、自分というものを持つように教育されてきています。(中略)

 結婚する前、子どもを産む前までは、ほとんどの現代女性は職業につき、仕事が終わった後や休みの日には、自分で稼いだお金を使って、コンサートや映画、ゴルフやテニス、旅行と、やりたいことはやってのけていました。

 それが、子どもを産んだとたんに、やりたいことがなくなってしまうわけがありません。(中略)

 やりたいことが全部できていたころと、全くできなくなったいまとでは、天と地ほどの違いがあります。その生活が不満でないはずがないのです。

 その不満が積もり積もって、子どもに対して、いじめというかたちで吐き出されるのは、当然と言えば当然なのです。」(前掲書、217〜8頁)

 この文章は非常に象徴的である。今の若い女性たちの奔放な生活態度が、その母親の世代の「自分で稼いだお金で好きなことをしたい」という、果たされなかった欲求を投影した、代理行動であることをよく示している。この世代の母たちは、夫や自分が果たせなかった出世を代わりに果たすことを要求して教育ママになったり、自分たちが制限されてきたことの反動として「やりたいことをやってのける」ことを推奨したのである。

 娘たちは「自我」とか「自分」とか「個性」というものは「やりたいことをやる」ことだと思いこみ、その結果、子どもを産んだとたんに「やりたいことができなくなった」ギャップの大きさにとまどい、不満を持ち、「母性」を持っているはずだと言われると腹が立ってくるのである。

 武田氏の処方箋は、「やりたいことはやってのけなさい」である。こういう考え方の中には、「子どもに関わることは、自分を失うこと」「やりたいことをやることは、自分を取り戻すこと」という感覚が前提とされている。「育児はマイナス部分」だと感じ、それを補償するものを探すというこの感覚こそ、すでに母性が解体している徴候である。

 こうした女性たちに「母親の顔を差し引いた女性になれ」「母としてより女として生きよ」と勧めればどうなるか。今回の息子殺人や、子どもを放置し餓死させたコギャルママたちの姿がその結果である。

 母性が解体してしまったために子育てそのものが苦痛である女性たちは、「他のやりたいことをやりなさい」と言われたくらいで、子育てを楽しむようになれるはずがないのである。少しは「やりたいことをやりなさい」と言ってやったら、ますます母性を放棄し子どもを放置してパチンコ、不倫に走るのが関の山である。子育て中に子育て以外の「もっと価値あること」を強迫的にやりたくなるという心理そのものの不自然さを問題にするのでないと、真の対策にはならないのである。

 

間違った処方箋A「家庭保育を捨てろ」

 もっと極端なアドバイスをする人もいる。田中喜美子氏は、母親は子どもを育てることに向いていないから、また「生きる力」を与えることができないから、保育園に預けるのが一番よいと勧めている。

 「保育園には家庭保育にはない『集団の力』があります。この『集団の力』はどんなに肉親が努力しても、子どもに与えてやることはできません。」

 「いま保育園以外に子どもに<生きる力>を与える場はどこにあるのでしょうか。」(『No! と言える子育て』飛鳥新社、145〜6頁)

 田中氏は初めから家庭で母親が子どもを育てるという方式を捨ててしまっている。母は子育てには向いていないと言う。「子育てには、愛とルールの両方が必要である。・・・ところが母の愛は理不尽で盲目である。その双方を使いわけることなどは子育ての天才でなければできない。」だから「早ければ早いほどよい。授乳期間が終わったら、母親は『子どものために』こそ家を出るべきである。保育園には本物の子ども仲間がいる。子育てを支えてくれる複数の大人がいる。保育園育児の母親は、孤独な家庭育児の母親よりも幸福である。」(『信濃毎日新聞』1998年9月1日付)

 母親が自分で育てない方が「子どものため」だという、なんとも無茶苦茶な理論である。その代わりに保育園を百%美化するとは、常軌を逸している。子どもの健全な心の発達にとって、いかに母親の愛情が必要かという無数にある研究をまったく無視するとは、単なる無知なのか、それともなにか心理的な理由でもあるのだろうか。

 乳幼児期に確立される母子一体感は、心の安定感と人間一般に対する信頼感の成立にとって、またその後の人間関係の作り方にとって決定的な影響を与える。この点に関する研究は無数に発表されている。そういう科学的な研究を無視した、田中氏のような乱暴な考えを持つ人物が、NMS(ニュー・マザリング・システム)という子育ての通信講座を開き、母親たちにアドバイスをするとは、危険きわまりないと言うべきである。

 こういう愚かな育児論を発表してはばからないのも、彼女らが母性本能否定論という間違った理論に毒されているからである。

 

母性本能の復権と復元を!

 虐待などの母性解体の現象に対する正しい診断は「母性本能の解体」であり、正しい処方は「母性本能の修復」でなければならない。

 解体された母性本能の修復は可能であろうか。「たしかに可能である」というのが、セラピーを通じて、母性を失った多くの女性が母性を回復する過程を見守ってきた私の結論である。

 母性を失った女性は、母性を味わい直すことによって、また自ら母性を体験することによって、母性を取り戻すことが確実にできるのである。母性を体験する方法は多様でありうる。セラピーの中で味わうこともできるし、先輩の母性豊かな女性との交わりで母性を体験することも可能だし、同年輩の女性たちの集いの中で味わうことも可能である。 

 母性的な性質がよみがえることは、相手が男性であっても可能である。セラピストが男性でも、セラピーの場そのものが母性的な状況を作り出すので、その中で母性が蘇ってくる場合がある。とくに夫の理解と優しいいたわりにつつまれるだけでも、母性を取り戻すのに有益である。

 それに対して、母性を失った女性に、「母性など持っていなくてもいい」と言ってあげるという対策は、その母親は当面救われたような気持ちになるけれども、子どもは絶対に救われないという意味でまったく間違っている。子どものためには母性が絶対に必要だということを正しく認識するならば、母性を取り戻す方策をこそ真剣に考えるべきである。

 母性解体は、母から娘へと受け継がれていくという不幸な傾向を持っている。子どもを虐待した母親は、必ず「母親に可愛がってもらったことがない」と言う。子どもを可愛がれない病の「世代連鎖」である。それは放っておけば母性解体がますます増えていくということを意味している。一人ひとりが意識的にその連鎖を断ち切らないかぎり、不幸は増殖していく。今こそ私たちは自覚的に母性を取り戻すことを考えなければならないのである。

 母性はたしかに本能であり、母性が子どもにとってどれほど必要であるかを、ここで詳しく述べることはできい。この問題について学問的に詳しく論じた拙著『母性の復権』(中公新書、今月25日刊)を是非参照していただきたい。