ベビーホテル殺傷事件

   ──『朝日新聞』社説の愚かなフェミニズム公式主義

     (平成12年7月22日初出)

 神奈川県大和市の託児所で起きた幼児虐待による殺傷事件について、『朝日新聞』は7月17日に社説「ベビーホテル 幼児の死は何を問う」を発表した。この社説はあきれるほどのフェミニズム公式主義に犯されており、驚くべき水準の低さ、定見のなさに満ちている。一定の公式にそって論説を展開しなれていると、これほどの愚かな論を立てても自らに恥じない精神になってしまうかの典型である。

 このような愚劣な論をまきちらしているかぎり、子どもたちを虐待から守ることもできなければ、子どもたちが心の病いになるのを防ぐこともできないのである。

 私は怒りをもってこの社説を告発し、それがいかに問題の本質を逸しているかを明らかにしたい。

 まず問題の社説の全文を次に再録する。

 神奈川県大和市で先ごろ、無認可の託児所を営む二十九歳の女性園長が、預かった幼児を死なせた疑いで逮捕された。二歳の男の子は、頭の骨が折れていた。

 この子が死んだ二月、同じ託児所で別の一歳九ケ月の男の子が硬膜下出血で死亡している。不自然な骨折をしたり、耳の鼓膜が破れたりした子どももいる。

 昨年二月に託児所が開園して以来、わかっているだけで二十三人の幼児がけがをした。広告の保育士の数は水増しされていた。実際は、園長一人で見ていることが多かったという。信頼してわが子を託した親たちの憤りや悲しみはいかばかりだろうか。

 今回の事件でも、警察や行政の対応の鈍さが浮き彫りになった。

 子どもがけがをさせられた親の一人が昨年春、大和署に被害届けを出していた。近隣からも警察や市、児童相談所に通報があった。なのに訴えは実らなかった。なかでも県は、何度か立ち入り調査をしながら子どもたちを守ることができなかった。

 全国の警察や行政は、密室になりやすい家庭や施設での虐待の早期発見と防止に努めるよう、職員の研修を急ぐ必要がある。

 見過ごせないのは、事件の背景にある保育行政の貧しさである。

 共働き家庭が増えているのに、保育所の絶対数が足りない。認可保育所は公営、民営あわせて全国に二万二千二百七十五カ所あり、百七十三万六千人の子どもが預けられている。ほかに二十三万六千人の子どもが一万百七十四カ所の認可外保育施設で過ごす。それでも、都市部を中心に三万二千人が認可保育所への入所を待っている。

 大和市は保育所に通っている子どもが千百一人なのに対し、待っている子どもが二百十五人と、待機率が格段に高かった。

 数だけではない。全国の認可保育所のうち延長保育をしているのは民営が四〇・五%、公営は九・四%に過ぎない。休日保育をしているところは約九十カ所しかない。夜間保育について、総務庁は一九九八年の行政監察で「公営の対応が硬直化している」と是正を勧告したが、改善ははかばかしくない。

 そのすきまを縫 うように、泊まりも引き受けるベビーホテルは八百三十八カ所と、この七年で倍増した。無認可の保育施設は、だれでも開設でき、届け出もいらず、行政の指導も及びにくい。その分、問題を抱えたところも出てくる。事件のあった託児所も二十四時間預かりのベビーホテルであった。

 それでも親たちが子どもを預けるのは、平日の昼間だけの保育では、思うように仕事ができないからだ。働き方が多様になったのに、保育サービスは親たちのニーズにこたえていない。そのしわ寄せを、子どもたちが被っていいはずがない。

 一人の女性が一生の間に産む子どもの数が一・三四人と、また減った。

 女性たちが、働きながら安心して子どもを産み育てるには、保育サービスの充実が欠かせない。保育所の拡充は、日本の将来を決めるかぎでもある。

 この社説は、前半で現状分析をして、それに対する対策として「職員の研修を急げ」と結論し、後半では背景としての保育行政の貧困を指摘し、その対策として「保育サービスの拡充」を要求している。「それだけ?!」と言いたくなるような、おそまつさである。

警察や行政の腰が引けているのはなぜか

 まず前半の「警察や行政の対応の鈍さ」について考えてみよう。このところ警察や行政の対応が不親切だとか、鈍いというケースが多く告発されている。もちろん中には許されない職務の怠慢というケースもある。しかしもっと根本的なところには、公務員が家庭や個人の生活の中に簡単には入っていかれない心理的な壁が存在するのである。

 というのは、今まで「プライバシー」とか「人権」という言葉が氾濫し、公務員は「人権恐怖症」にかかっているようなものである。ほかならぬ『朝日新聞』は「人権恐怖症」の最大の原因になってきた。

 もし今ほど幼児虐待が問題になっていなかったころに、警察が証拠もないのに誰か隣人が知らせたというだけの理由で家庭の中に踏み込んだら、どんな非難を受けたことか。ところが今では「どんどん積極的に踏み込め」と言わんばかりの論調がはびこっている。それでは手足を縛っておいて「やれやれ」と言っているに等しい。勝手なものである。

介入の法的整備、法的保証を

 もっと警察や行政が「悪」と戦いやすくしてやる必要がある。その上で責めるべきは責めるのでなければならない。すなわち、どこまではやらなければならないのか、どこからはやってはいけないのかを、明確に決めておかなければならない。

 具体的には、「踏み込む」場合の法的な権限を保証することと、その場合の「行き過ぎ」の防止をどうするかというマニュアルを作ることである。積極的に介入することを義務づけると同時に、行き過ぎないように一定の枠を示すというように、両面的な基準を明確にするのでなければならない。

 職員の「研修」などしても「焼け石に水」程度の対策でしかない。きちんとした権限と義務を持たせた上での「研修」でなければ、ただ「研修」「研修」と言っても効果は期待できない。権限と義務を持たせても官僚的でいい加減な対応しかしない職員は首にするか配置転換にするくらいの覚悟がなくては、本当の対策とは言えないのである。

「共働き家庭が増えているのに」?

 次に社説は、「事件の背景」についてこう述べている。

共働き家庭が増えているのに、保育所の絶対数が足りない。

 この社説がフェミニズムの公式に従っていることは明瞭である。

 共働き家庭が増え、保育所が足らなくなっているのを、なにか自然現象であるかのように言っている。保育所とはもともとは「生活のために働かざるをえない母親」のための施設であった。ところがフェミニズムが「働く」ことを絶対的な価値のごとくに扇動するので、生活のためではなくて「生きがいのため」「働くこと自体に価値を見出して」働く母親が増えているのである。「共働き家庭が増えている」のは決して自然現象ではない。フェミニズムがやみくもに「働く」ことを推奨するために起きている、一種のイデオロギー現象である。

 働かなくても生活に困らない母親が、イデオロギーのために働くから、保育所が足りなくなる。そのために、働かざるをえない母親が子どもを預けられなくなっている。私は女性に一生働くな、と言っているのではない。せめて子どもが小学校にあがるくらいまで、働かないでいられないかと言いたいのである。

 そして女性が多く働けば働くほど労働者数が増え、その結果として賃金が低くなるから、ますます多くの女性が働かなければならなくなり、経営者やその背後にいる株主(資本家)たちの思うつぼである。その結果として、ますます保育所が足らなくなっている。

 つまりフェミニズムとは、かつてのマルクス主義の用語を使えば「ブルジョア・イデオロギー」である。すなわちブルジョアジーにとって都合のいいイデオロギーなのである。

 それも浅薄な「ブルジョア・イデオロギー」である。というのは、ただ働き手を安く確保するという近視眼的な利害に奉仕しているだけである。その裏では、全国的な規模で子どもがスポイルされており、それは国民的な規模での心の荒廃とモラルの崩壊につながっているのである。

「思うように」「多様に」働くとは?

 さらに社説は言う。

それでも親たちが子どもを預けるのは、平日の昼間だけの保育では、思うように仕事ができないからだ。働き方が多様になったのに、保育サービスは親たちのニーズにこたえていない。そのしわ寄せを、子どもたちが被っていいはずがない。

 乳幼児の母親は「思うように」働くべきではない。また「多様に」働くべきでもない。子どもにしわ寄せがいくような働き方をすべきではない。そのような悪質な搾取につながるような働き方を批判することこそ、フェミニズムの正しい態度というものである。

 「思うように」働くとは、深夜でも早朝でも、会社やお客が要求すれば、そのとおりに従順に働くということである。子どもを犠牲にしてまでも働くということである。

 また「多様な働き方」という言葉がつねにプラスの意味で使われるが、マイナスの意味もある。この社説の「多様な」「親たちのニーズ」という言葉は、女性の残業や深夜労働を意味している。「延長保育」や「24時間保育」が必要になっているのに、それが足らないから無認可のベビーホテルが増えるのだという論旨だからである。

 しかし「延長保育」や「24時間保育」は、本来必要になってはいけないものなのだ。つまり「女性として身体的・生理的に無理な働き方」も「多様」という言葉の中に入れて、その矛盾も弊害も見えなくしてしまっているのが、この社説である。

 女性たちを「多様に」働かせるのは、経済界の目先の利益にしかなっていない。そのように女性たちを限界まで働かせようという愚かな経済界の近視眼的な利害に奉仕させられているのがフェミニズムである。

「働きながら安心して」はありえない

 最後に社説はこう結論する。

女性たちが、働きながら安心して子どもを産み育てるには、保育サービスの充実が欠かせない。保育所の拡充は、日本の将来を決めるかぎでもある。

 「働きながら安心して子どもを産み育てる」ということは、そもそも形容矛盾と言うべきほどに、原理的に不可能なことである。「働いている女性」は子どもを育ててなどいない。他人に育ててもらっているのである。他人に任せていて、どうして安心などしていられるのか。心のどこかで、不安だったり、子どもに「済まない」という気持ちを持っていない母親などいないのである。もしそういう気持ちがまったくないと言う母親は、よほど無神経か、愛情のない人間であろう。

 幼児虐待の裏に、どれほどフェミニズムの悪影響がひそんでいるかについては、拙著『母性崩壊』で詳しく論じているので、参照してほしい。

『朝日新聞』の執拗な反専業主婦キャンペーン

 フェミニズムの悪影響と言えば、これまでも『朝日新聞』はたびたび偏向した思想キャンペーンを行ってきた。

 幼児虐待の原因として、『朝日新聞』は執拗に「専業主婦のせいだ」という記事を載せている。

 たとえば、春奈ちゃん殺人事件の直後にも、「専業主婦の憂うつ」のせいにする特集記事を組んだ。その中で、大日向雅美氏は、専業主婦の場合は「子育てが自己実現の手段になっている」からいけないと主張している。その反対に「保育園に子どもを通わせる母親たちは仕事を持ち」「だから子育てや教育を相対視できる」「専業主婦も、仕事でなくても、地域活動やボランティアでも、活動の場を持つべきだ」と主張している(平成11年12月6日)。

 子育てを通じて自己実現してなぜ悪いのか。「家にいるからいけない、外に出れば解決する」と言わんばかりである。見当違いもはなはだしいと言うべき診断と対策である。手のかかる乳幼児の育児中に「ボランティアや地域活動のために外に出る」などということをしたら、母親に余計負担がかかり、ストレスは増すばかりである。そんな解決策は、乳幼児期の子どもを自分で育てたことのない人間だから言えるのである。

 問題は外に出る出ないではない。母性があるかないかである。いかにして母性を守り、育て、回復させるかという観点がみじんもないところに問題がある。大日向氏は母性という問題を避けようとしている。

 春奈ちゃん殺しの容疑者には、専業主婦という一般的な問題よりも、彼女個人の性格的な問題や、特殊な心理的な問題があったことは、その後の分析の中から明らかになっている。そういう個人的な心の問題を一切捨てて、専業主婦であったせいに無理矢理してしまおうという予断と偏見に満ちた記事の作り方であった。

 子どもは「適度に良い」「good enough な」母のもとで育てられるのが最も望ましい。そのことは多くの実証的な研究によって証明済みである。その実証的な研究の一端は拙著『母性の復権』の第一章で明らかにしている。

 早くフェミニズム陣営が間違いに気づいて、「乳幼児の母は働かなくてもいい社会に」を理想としてもらいたいものである。

 今回のベビーホテル殺傷事件の背景にあるのは、フェミニズムの主張に無理と間違いがあるということである。子どもたちを犠牲にしているのはフェミニズム思想である。その反省もなしに、表面的な「保育所不足」という問題にすりかえてしまうのは、許しがたい犯罪である。

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