「精神が病む」とはどういうことか

   ── 三たび17歳殺人について

           (平成12年6月20日初出)

はじめに ──問題の立て方の正しい筋道

 5月7日に発表した「17歳殺人の意味するもの」で私は「これらの殺人は精神病によるものだ」という見解を示した。この評論は一般の人びとを対象にしたものであるから、本当は「精神病とは何か」という説明をすべきであった。じつは「精神病」の定義次第で、犯人の17歳少年たちが「精神病である」とも「精神病でない」とも言えるのである。

 今後、この少年たちが精神病であるのか否かが争点になる可能性がある。というのは、彼らが「精神病」であり、したがって「心神喪失」「心神耗弱」であるということになると、彼らには「責任能力がない」「乏しい」ということになり、現刑法では「刑罰を与える」ことができなくなる。それは人間としての感情からすると「納得できない」ということになり、刑罰を与えたい人たちは「責任能力があった」という見方に傾きがちになる。

 しかし、「刑罰を与えたい」だから「精神病だということにしたくない」という論理は本末転倒している。まず「精神病であるのかどうか」をできるだけ客観的に調べることが優先されなければならない。そのことと、「責任能力の有無によって刑罰が左右されてよいのか」という問題とは、別の問題として議論されるべきである。

 また「精神病」だとなると、その者を強制入院させることができるが、「精神病でない」となると強制入院させることはできない。このことを考えると、殺人などの犯罪を予防するためには「精神病」の定義を広くしておいた方がよいということになりかねない。しかしそれをあまり広くして、戦前の「予防拘禁」のようなことがまかり通ったのでは、本当の意味での人権が侵される恐れがある。早い話が精神病でもないのに、親が「危険だ」とか「怖い」と言っただけで強制入院させられてしまうのでは、恐ろしい世の中になってしまう。

 このように、一方では本当に危険のある者に対してなんらかの予防的な処置を可能にすべき(なんの罪もない人が殺されるということを防がなければならない)という問題と、本当は精神病でもないし危険もないのに強制的に拘禁されるのを防がなければならないという、相矛盾する課題をわれわれは同時に充たさなければならないのである。

 この問題の鍵を握っているのが、「精神病とは何か」という問題である。この定義次第で、犯人や犯罪を犯す可能性を持った者に対する扱いに大きな違いが出てくるので、「精神病とは何か」という問題は非常に大きな問題だと言うことができる。

 犯罪を犯した少年たちは、普通の感覚を持った人ならば誰が見ても「異常だ」とか「病気だ」と思われる。そういう「常識的な感覚」は、私は正しいと思う。しかし、何故正しいのかをできるだけ学問的に明らかにすべきである。

 「精神病者は心が狂っているから、何をするか分からない」という一般の人たちの理解は、じつは正しいのである。しかし、その場合の「心が狂う」とか「心が病んでいる」というのは、いったいどういう事態なのかについて、正しい理解がなされていなければならない。

 そこで、以下「精神が病むとはどういうことか」について、多少とも考えてみたいと思う。(ただし私の場合は「精神」という言葉よりも「心」という言葉を使ってきたので、以下「心が病むとはどういうことか」と言い換えて考察していきたい。)

一 「心の病」とは何か

 「心が病んでいる」という状態を、私は「自我=意識が無意識に負けている状態」と言うことができると考えている。

 「自我とは何か」については新刊の『無意識への扉をひらく』(PHP新書)の中でくわしく述べているので是非参照していただきたい。簡単に言うと自我とは「意識的な価値体系」であり、その人の意識的な行動を規制している。したがって、ある社会の中では大部分の人びとの自我はかなりの共通性を持っており、その共通の部分は「常識」という形で存在している。だから「常識」に反した行動は「異常」と感じられるのである。

 自我が十分に強いときには、自我は無意識が勝手なことをしないように見張っている。しかし自我が弱かったり、無意識が強すぎると、無意識が自律的になり、自我が知らないうちに勝手なことをしたり、または自我をだましたり、または自我が知っていても止められない状態になる。これを無意識の自律化した状態と言う。二重人格・多重人格はこの典型である。

 自我が無意識に完全に負けてしまい、無意識に乗っ取られた状態、あるいは完全にだまされている状態が分裂病だと言うことができる。自我が正常に働いている場合には「たわいもない空想だ」と思える場合にも、それが現実だと感じられる。つまり感覚が狂わされている状態とも言うことができる。妄想とか幻聴とはそうしたものである。また幻視といって太陽がいくつも見えたり、冬の庭に花がいっぱい咲いているように見えたりする。ただ間違って見えるというだけでなく、自分の感覚の方が正しいと思い込んでいるのが分裂病の特徴である。自我の正常な働き(批判力)がなくなっていると言うことができる。

 次にもう少し自我がしっかりしていて、自分の感覚がおかしいと分かっているのに、その感覚に翻弄されるのが神経症である。たとえば、強迫神経症の人は、体が汚れていると感ずると、風呂に入って体の各部分を百回ずつ洗わないと気がすまない。左に一回回ったら、すぐに右に一回回り直さないと気がすまない。といった具合である。

 分裂病と神経症の中間が、最近注目されている「境界例」(ボーダーライン)と呼ばれる症状である。これが今、青年を中心に増えている。分裂病ほどには妄想が強くないが、神経症よりは、「おかしい」という自覚が乏しい。無気力症状を示し、引きこもりになりがちである。私の見るところでは、この症状は父性の欠如と密接に関係していると思われる。

 同じ無気力でも、妄想など感覚の狂いがなくて、ただ心的エネルギーが無意識の方に行ってしまっているのが「うつ病」である。これは自我にエネルギーが供給されていないという状態と考えることができる。

 次に神経や感覚が狂っているのに心気症がある。これは身体的な感覚が狂っていて、たとえばお腹に石があるとか、気管が狭くなっていて息が苦しいとか訴える。もちろん客観的にはなんの異常もない。また心身症の場合のように、心への大きなストレスによって、本当に身体的な症状が出る場合もある。

 以上、非常におおまかではあるが、自我が無意識に負ける場合にも、いろいろなレベルと種類があるということを示した(これはあくまでも概論であって、専門的な講義ではなく、自我と無意識の関係にもいろいろなレベルがあることを示すためである)(註)。

 つまり一口に「心が病んでいる」と言っても、自我がほとんど正常に働いていない場合から、たいていは正常に働いていて部分的にしか狂っていない場合(またはときどき狂う場合)まで、いろいろな状態があることが分かると思う。これらはすべて「心が病んでいる」状態と言うことができる。しかし当然のことながら、この状態が必ず犯罪と結びつくわけではない。

 (註)「心の病」についてもっと深く知りたい人は「分裂病についてユング心理学は何が言えるか」(『ユング研究』2)、「ノイローゼについてユング心理学は何が言えるか」(『ユング研究』3)を参照されたい。(『ユング研究』は私が編集発行した雑誌で、その購入方法はこのHPの最後の「C.G.ユング研究」の中にある。)

二 「心の病」と殺人との関係

 このように「心が病んでいる」状態とは、なんらかのレベルで「自我のコントロールがきかなくなっている状態」と言うことができる。自我のコントロールが完全にきかなくなった状態を「狭義の精神病」と呼ぶことは可能である。しかし完全に無意識に支配されている「狭義の精神病」だから危険だとは限らないので、話がややこしくなるのである。早い話が、無意識に支配されていても、その無意識が危険でない場合もあるのである。

 「心が病んでいる」からといって、すべての人が他害的・攻撃的になるわけではない。無意識の支配が強いと他人から見て「狂っている度合いが強い」と感じられるが、しかしだからといって、それだけの理由で殺人を犯す可能性が高いわけではない。また部分的または、たまにしか自我の優越が犯されないのに、そのときに殺人を犯すかもしれない。逆に無意識の支配度が高くなっている(病気としては重度である)としても、他人にとって危険度が高いとは限らない。

 だから分裂病やそれに近い状態だけを「狭義の精神病」と名づけて危険視し、強制入院の対象とし、他をはずすのは、「心の病」というものを知らない者が作った法律だと言わざるをえない。

 さて、他人に対して攻撃的になるのには、「無意識の優越」という条件のほかに、さらに二つの要件が付け加わらなければならない。

 第一は、心の中に「うらみ」「憎しみ」「怒り」という感情が蓄積されること。この感情は外から見て簡単には見えないこともあり、また本人が隠している場合もあり、本人さえ自覚していない場合もあるが、たいていは家庭内暴力とか動物を殺すとか、何かの徴候が見られる。

 第二は、この感情が無意識からエネルギーを供給されて、自我によってコントロールされる範囲を超えて肥大化し、極端化すること。

 以上の二つのことが起こりうるのは、「心の病」の中でもとくに分裂病と境界例的な人格障害の場が多い。というのは、この二つでは

(1)自我の力が弱い

(2)妄想的な傾向があるため、「うらみ」「怒り」の感情が一人歩きしやすい

ためである。

 その他の神経症、心身症、心気症、無気力症などの場合は、攻撃性は弱いと言うことができる。また自我はまだかなり正常に働いており、いわゆる常識もかなり健全に働いている場合が多い(平均的な人よりもはるかに健全な常識を備えている人もいる)。殺人に至るなどということはまず考えられない。

 この場合に、注意しなければならないのは、自我と無意識の力関係は相対的なものだという点である。たとえば自我が弱くても無意識も弱いと自我が負けたという状態にはならない。しかし自我が相当に強くても、無意識の力が非常に強いと、自我は負けてしまう。少年の場合にありがちなのは、無意識の衝動の割に自我が弱く、少しの殺人衝動でも抑圧されることなく、次第に膨張して、小動物を殺す、弱い子どもを殺す、というようにエスカレートしてしまうのである。危険な衝動はあくまでも自我の強さとの関係で大きくもなるし、行動となって現われてもくるという点を見ていなければならない。

 もう一つ注意しなければならないのは、自我は負けてもまったくなにも機能しなくなるのではなく、たとえて言えば無意識の家来になり、無意識の意図に忠実に働くこともあるということである。たとえば、無意識が人を殺そうと意図する場合に、自我はそのために必要な合理的な手段・方法を考えて実行者になることはできるのである。

 もう少し親切に説明すると、自我=意識というものには、(善悪などの)判断機能と実行機能があり、判断機能は失われているのに、実行機能だけは残る場合がありうるのである。

 そのために、「異常な殺人」なのに「やり方は合理的」ということも起きてくる。そういう現象は「自我とは何か」および「自我と無意識の関係」を知れば、不思議でもなんでもない。だから「合理的な部分がある」という理由で、殺人犯が「精神病ではない」とか「責任能力がある」とは言えないのである。

 言い換えれば、精神は全体としては狂っているが、部分的に合理的だということがありうるのである。

三 野田氏の「病気」と「異常」の概念について

 以上の考察によって、「病気」(精神病)か否かをどこで区別すべきかが明らかになったと思う。「病気」とは自我が無意識に負けている状態だと定義することができる。

 この点で私とは決定的に異なっているのが、いま発売されている『文藝春秋』7月号に掲載されている野田正彰氏の意見である。(高村薫氏と野田正彰氏の「対論・『異常な少年』はなぜ生まれるか」) 

 野田氏は「殺人を犯した少年たちは精神病ではない」「病気ではない」と言い切っている。その場合に、野田氏は「精神病」をきわめて狭く定義している。たとえば、野田氏は犯罪を犯す人たちの種類を、次のようにまとめている。

 「まず狭義の精神病」「嗜癖(シンナーや覚醒剤で犯罪を起こす人)」「性格障害」「性格障害の要素が少なくて犯罪を犯す人」(p.164〜165)。

 このように「狭義の精神病」と言うからには、「広義の精神病」があるのかと思うと、どうもその他の場合は「精神病ではない」と言っているように受け取れる。言葉の使い方が混乱しているように思われる。

 さらに、野田氏は「狂っている」とか「異常」だということと、「病気」とは違うと主張している。すなわち「病気は質的な違い」なのに対して、「異常は偏差の概念」だと言っている。つまり「異常」とは平均からどれだけはずれているかという問題だと言うのである。

 「病気は質的な違い」だと言っても、どういう質的な違いなのかを言わないと不親切である。私は、無意識が自我に優越して、自我の自律性を奪っており、自我のコントロールに服さなくなっている状態を「精神病」と言うべきだと考えている。無差別殺人を起こす状態は、それが「分裂病」と診断されようが、「境界例」的な「人格障害」と診断されようが、またそれらに当てはまらないと診断されようが、私の言う意味での「心の病」であることは間違いない。要するに自我の自律が失われているのである。無意識の方が主人になっている状態であることは間違いない。

 野田氏は「異常」だが「病気」ではないと言っているが、それは概念の混乱である。少なくとも素人を混乱させる発言である。高村氏も「病気ではない」と言われると「精神に問題のない人たちだ」と言われているようで、驚いてしまうと発言している。それに対して野田氏は、上のように「病気」と「異常」の違いを説明する。

 しかし質的な狂いと量的な異常とは密接な関係にあり、対立する概念ではない。「平均からはずれた」「異常」な状態というのも、精神に問題があるから平均からはずれるのであるから、「病気」と「異常」を互いに排除し合う別の種類の概念として立てるべきではないのである。「病気」と「異常」とは密接に関係し、かつ重なり合った概念である。「病気」の程度と「異常」の程度とは比例すると言うことができる。すなわち無意識が優越するにつれて異常の程度もひどくなるのである。

 以上のことを考えると、野田氏の概念や定義では、現実の問題に対処しきれないと思われる。すなわち「心の病」によって犯罪を犯す者に対する正しい対処ができなくなると思われる。

四 「精神病」かどうかで扱いが正反対になる

 そこで次に、実際の場面での「精神病」者の扱いについて考えてみたい。

 「精神病」か否かは二つの局面で重要な意味を持ってくる。

 一つは犯罪を犯した者の責任を問う場合。つまり刑罰を科してもよいかどうかという問題。

 いま一つは強制的に拘束することができるか否かという問題に関わる。

 今回の17歳殺人においても、この二つの問題がからまっているが、論者たちはこの二つを区別して論じないので、混乱が生じていると思われる。

 まず第一の問題について言うと、これについてはすでにあちこちで述べている。私の立場は「現刑法の考え方は間違っている、結果責任の原理から、たとえ心神喪失であっても罰すべきだ」というものである。しかし不幸な結果が出てから、どう罰するかを議論するのは、空しい気がする(もちろん遺族の感情としては「空しい」くらいでは済まされないことは理解できる)。

 むしろ、不幸な結果を防ぐためにも、本当に危険な者を強制的に拘束する処置が「正しく」できるような制度を作ることの方が、よほど大切だと思われる。(同じことは、死刑廃止論にも当てはまる。死刑の可否を論じたり、死刑廃止運動をするくらいなら、そのエネルギーを、殺人をなくす研究や運動につぎ込んでほしいと私は思う。)

 正しい強制入院制度を作るためには、「危険な精神病」の定義をきちんと定め、それを正しく判断できる体制とスタッフの養成が急務である。その問題を、具体的に今回のバスジャック事件を例に考えてみたい。

 バスジャック少年が人を傷つけたり殺す可能性があると両親も医師も判断して強制入院させたが、それが正しかったことは実際に少年が殺人や傷害を犯したことによって明らかである。少年は明らかに心を病んでおり、それが原因で殺人を犯した。彼を強制入院させたのは、緊急避難の処置としては正しかったと私は見ている。

 もちろん「結果から見て」の話だから、前もっての判断が正しくなされたかどうかには疑問が残る。本当は一つの病院や少数のスタッフの判断でなく、複数の病院やスタッフが関与して、判断を付き合わせて最終的な決定をすべきである。そうでないと、病気でもないのに、病気だと判断されて不当に拘束される場合が出てくるからである。

 例えば私が知っている例でも、親が子どもを「精神病だ」と訴えて、不当に強制入院させた場合が2例ある。その場合に、精神科医師が「精神病ではない」と診断して帰らせた。ところが親はまた別の病院に訴えて、また強制入院させたが、また医師が精神病ではないと診断して帰らせた。そんなことを何度も繰り返しているうちに、金儲け主義の病院に当たってしまい、その結果その少年はなんと10年にもわたって強制入院させられ、暴行や投薬による虐待を受けたのである。

 こういう恐ろしいことが起きないためにも、強制入院には、よほど慎重な診断体制と治療体制が必要なのである。

 さて、バスジャック事件に戻ると、入院させたのは間違っていなかったが、間違っていたのは、そんなに危険だと判断した少年を何度も安易に帰宅させたことである。少年の心の状態がよくなっていないのに、帰宅させるという処置は間違っていたと言うべきである。(野田氏は正反対に、入院させたのは間違いで、帰宅させたのは仕方ないという意見である。)

 ただし、この問題は、病院や担当医師個人の判断ミスとしてのみ指弾するのは、すこし酷だと思う。まず判断ミスについて言うと、こういうケースの判断は非常に難しいと言える。少年は「出たい」という強い動機を持っていた。とくに今回のように「出て、恨みをはらしたい」という動機を持っていると、細心の注意をもって「よい子」を演じ、おとなしくして「だます」という行動に出る。それが本当なのか、だましているのかを見抜くのは至難の技である。

 したがって、このような場合の診断能力の涵養は個人のレベルの問題ではなく、精神医療全体のレベルの向上が基礎にないと、個人だけを責めても問題の解決にはならないであろう。

 さしあたって、今回のような場合には、複数の医師による(場合によっては病院全体の体制による)慎重な観察と診断が不可欠だが、今の精神医療の現場ではそんな贅沢な体制は望むべくもないのである。というのは、今の精神科では、医師に対して患者の数が多すぎて、一人の患者に一回で10分か15分しか当てられなくて、ちょっと症状を聞いて薬を出すという程度の診療しかなされていない。患者の話をじっくりと聞いて、その内的なダイナミズムをよく理解し、双方の信頼関係を築いた上で治療の方法を考えるという丁寧な診療は不可能なのである。こういった精神医療の体制の貧困さが根底にあるのであり、医師個人だけを責めても決して問題は解決しないのである。

 以上をまとめると、

 一方では、患者の人権は大切にされなければならない。素人である他人や家族が見て「危険」だと思っただけで強制入院させられたら、たまったものではない。だから能力のある専門医を養成し、正しい鑑定を受けられるようにすることが絶対に必要である。一つの病院だけの判断で強制入院させられるという事態は避けられなければならない。

 しかし、他方で、なんの関係もない人を無差別に殺すなどということをなくすためには、明瞭に暴力的な傾向のある者を拘禁するのは社会の当然の権利でもある。

 だからこそ、その場合の間違いによる人権侵害を防ぐためにも、専門家の診断力や治療力の向上が欠かせないのである。さらに、拘禁したままで、なんの治療もしないというのでは話にならない。強制入院させたら、最善の治療が保証されるというのでなければならない。

 日本の精神医療は先進国の中では圧倒的に遅れていると言える。政治の貧困の結果である。国の政策として、早急に精神医療の充実を図るべきである。今のままでは、心の病が原因の殺人事件は決して減らないであろう。

五 家庭内の人間関係が第一次的な動因 

 以上の考察からも分かるように、どんなに「異常」に見える殺人(無差別殺人)にも、必ず攻撃的な無意識の支配をもたらす動因というものがあり、それは理解可能なものだということが分かると思う。

 その「心の病」をもたらす動因の中で、とくに私が注目しているのが、生育歴の中での父性の欠如と母性の歪みである。(その点については、すでに多くの機会に発言しているから、ここでは述べない。)

 したがって、以前から私が主張しているように、今回のような無差別殺人をはじめとする青少年の暴力的な傾向を減らすためには、家庭内での育児や人間関係のあり方について、もっともっと研究を進め、一般の人たちの認識を深めて、健全な人格の発達のために家庭・家族のあり方を改善する努力をしていかなければならない。家庭での人間関係が良好で幸せなものにならないかぎり、少年犯罪は決して減少しないだろう。

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