再び17歳殺人について

   ─母性のあり方にメスを入れるべし

           (平成12年6月4日初出)

 

 5月はじめに17歳少年が引き起こした殺人(および未遂)事件が立て続けに三件も起きた。すなわち

5月1日 豊川市の主婦殺害事件

5月3〜4日 佐賀のバスジャック事件

5月12日 神奈川の地下鉄で男性の頭を金槌で殴打した事件

 最初の二件について、私はいち早く5月7日に論評した。その後、一ヶ月たって、多くの事実が判明し、とくに私が主張していた「家庭のあり方にメスを入れる」ための材料もかなり出てきた。その中から浮かび上がってきたのが母性の問題である。以下、この事件に共通して見られる母性の問題点を明らかにしてみたい。

 

1 親が第一次的原因


 まずはじめに明確にしておかなければならないことは、子どもが犯罪を犯す場合には、その責任も原因も第一次的には親にあるということである。子どもの心のあり方にとっては、親の影響が最も大きい。親が不在という場合にも、そのことが子どもに影響する、という意味で親のあり方が決定的なのである。

 「親が第一次的原因だ」という言い方をすると、よく「原因など探しても仕方ない」とか「犯人探しはいけない」と言う人がいる。そういう意見は、すでに犯罪を犯してしまった者に対しては原因を探しても意味がないという考え方に立っている。しかしそれは二つの意味で間違っていると思う。

 第一に、犯罪の動機や原因を明らかにすることは、その者の更正について考えるときに大いに参考になるはずである。何が足らなかったのかが明らかになれば、何を与えればよいかも分かってくる場合がある。

 第二に、社会全体にとっては、「殺人がなぜ起きたのか」という原因を研究することは、そうした不幸な事件を予防するためには絶対に必要なことである。

 なお、先の「追記」の中で私は「親としての能力が十分にないという人がいるのは仕方ないことである。そういう場合に、自分たちの限界を悟ったなら、他人や社会(警察や精神病院)に子どもを委託することは決して悪いことではなく、むしろ望ましいことである。この親はその意味で正しく判断し行動したと言うことができる。」と書いた。

 この意見は「その時点での緊急避難的な意味で正しい」という意味であって、それまでの親のあり方までも正当化したものではない。むしろ、そこまでに至る親のあり方に問題があったはずであり、そこにメスを入れなければならない。

 そう言うと、それはプライバシーを侵すものだという意見が出てきそうである。しかし子どもが殺人などの重罪を犯した場合には、親の育て方についてメスを入れられるのは仕方ないと言うべきである。むしろそうした吟味に対して積極的に協力すべきである。

 かつて「酒鬼薔薇」事件のときに、加地伸行氏はこう述べた。

「もし私が被害者の小学生の父であったならば、復讐をする可能性がある。私は凡夫であるから、罪を憎んで人を憎まずというような高尚な気分になることはとてもできない。

 また、もし私が加害者の中学生の父であったならば、自裁する可能性がある。私は日本人であるから、親は親、子は子、別の独立した人格であるというような、欧米人流の個人主義的行動をとることなどとてもできない。それに、自裁する前、罪を犯した子を自らの手で処置する可能性さえある。」(『諸君!』1997年10月号)

 自分の子どもが罪を犯したとき、いまこれだけの責任感と覚悟をもって自らの態度を決める親がどれだけいるであろうか。

 昔、殺人犯の親が「申し訳ない」と言って自殺したことがあった。私は親に自殺しろと言っているのではない。それほどの親の責任の自覚をもつべきだと言っているのである。今回のバスジャック犯人の親は、「私たちの手に負えないので、病院に入院させるようにお願いした」と言う。私も論じたように、親の手に負えないときに、他人の手を借りることは仕方ない。しかしそれは親の責任を放棄していいということでもないし、親に問題がなかったということでもない。

 

2 浮かび上がってきた家庭のあり方


 事件から一ヶ月たって、犯人たちの家庭の大まかな様子が分かってきた。私が一般論として指摘していたことが、証明された形になっている。すなわち父性と母性の両方に大きな問題があることをうかがわせるものがある。

 豊川市の主婦殺害事件の場合。少年が一歳半のときに両親が離婚。母親は別居。父が祖父母と同居。少年は祖母に育てられた。

 佐賀のバスジャック事件の場合。母親はいわゆる「働く女性」で、保健婦として生活改善や栄養指導をしてきた。

 神奈川の地下鉄で男性の頭を金槌で殴打して殺そうとした事件では、少年が九歳のときに両親が離婚。母が働きながら育てた。

 この中から浮かび上がってくるのは、両親が離婚した、母が働いている、という特徴である。これは偶然であろうか。私は決して偶然ではないと思う。

 この特徴は誰が見ても明々白々であるのに、マスコミ・ジャーナリズムは決して掘り下げようとしない。論ずることさえタブーになっているかのようである。

 何故論じないのか。それはフェミニストたちから「離婚者への差別だ!」「働く女性への差別だ!」という攻撃を受けることが怖いからである。

 しかしそれなら、春奈ちゃん殺しの犯人が専業主婦だったことについて「専業主婦の憂うつ」という特集を組んだ朝日新聞はどうなのか。それについて「差別だ」という批判を見たことがない。春奈ちゃん事件の動機が、専業主婦の憂うつのせいでなかったことは、その後事件の解明が進むにつれて明瞭になってきている。あれは「お受験」のせいでも、「主婦同士のつき合い方の問題」でもなく、ましてや「専業主婦だったせい」でもなく、当人の心のあり方の問題(はっきり言って心の病とも言うべき問題)であった。

 それなのに、なんでも専業主婦のせいにした一部マスコミの姿勢と、それに同調した大日向雅美氏の偏った姿勢は、厳しく批判されなければならない。あれこそ偏った差別的姿勢であった。

 

3 離婚が子どもに与える影響


 さて、話をもとに戻して、今回の17歳殺人の場合に、親が離婚しているとか、働いているということを問題にするのは、差別であろうか。春奈ちゃん事件の場合のように、専業主婦のせいでもないのに専業主婦のせいにするのははっきりと差別である。しかし本当に離婚が影響している可能性があるときに、そのことを問題にするのは、差別でないどころか、むしろ必要なことである。

 離婚が子どもの心に大きな悪影響を与えることは、多くの研究や、子どもたち自身の訴えから、あまりにも明らかである。(その点については拙著『主婦の復権』p.102~104、『フェミニズムの害毒』p.254を参照されたい

)今回の事件でも、主婦殺し事件と殴打殺人未遂事件の犯人の両親は離婚している。犯人たちは片親で育っている。この事実が少年たちの心になんの影響もないということは絶対にありえないのである。

 ただし、このことを指摘したからといって、離婚した人たちを一律に非難しようというのではない。万やむを得ない事情で離婚する人もいるし、正当な理由のある場合もある。私は離婚がすべて悪いという考えではない。ただ強調したいのは、離婚したあとの子どもの心のケアを、もっともっと真剣に考えるべきだということである。

 今は離婚のマイナスについて発言しただけで、「差別だ!」と叫ばれるので、冷静に離婚のマイナスとその対策について発言することさえ阻まれている。離婚がもたらす子どもの心へのマイナス作用とその対策について、十分に論議がなされなければならない。

 離婚して父と暮らしている子どもには、どうしたら母性を補うことができるか、また逆に母と暮らしている子どもにどうしたら父性を補うことができるのか、これについて国や地域が何ができるかを考えなければならないのである。

 

4 バスジャック少年の母性問題


 バスジャック少年の場合は、両親がそろっていた。しかしその父性のあり方にも、母性のあり方にも問題があったと思われる。

 父親の影が薄いことについては、事件後、父親から電話を受けた町沢静夫氏はこう語っている。

「お父さんと少し話したいと思ったのですが、すぐに『妻にかわります』と言われてしまいました。ちょっとお父さんの存在が見えないですね。家庭内暴力や不登校のある家庭の典型的なパターンです」(『週刊文春』2000.5.25)

 父性が不足しているということは確かであろう。しかしそれは問題の半面である。父性不足と反比例するかのように、この母が強い、強すぎるという問題が見えるのである。いや単に強すぎるというより、「おかしな」強さと言うべきかもしれない。

 一般的に言うと、父性が不足すると、子どもは不登校になったり、引きこもりになる傾向がある。しかしそれだけだと、多くの場合、子どもは暴力的にはならない。引きこもりの少年たちの大部分はおとなしく、事件につながるような暴力的な傾向は示さない。

 ところが、それに加えて母性が欠如していたり歪んでいる場合には、必ずと言っていいほどに暴力的になる。その典型が「酒鬼薔薇」少年であり、金属バットで父親に殺された家庭内暴力少年もそうであった(この問題については拙著『母性崩壊』p.71~80、『フェミニズムの害毒』p.136~141 で詳しく分析している)。また五千万円恐喝事件の加害者の少年の場合も「働く母親」の態度に問題があったことはすでに述べた。

 子どもは必ず優しい母性を求めているものである。それが充たされないと、なんらかの要求をするが、思春期になると単純に甘えるのは気恥ずかしいので、乱暴な言葉を使ったり、逆に暴力的になったりする。それは一種の甘えの表現である。少なくとも最初はそうである。そのうち、その甘えが受けとめられないと、だんだん怒りや憎しみに変わっていく。こういう心理が作用しているので、母性に問題がある子どもはとかく暴力的になるのである。

 バスジャックの少年の母親の場合にも、やさしい母性はあまり感じられない。というよりも、自分に問題があるとはみじんも考えていないという態度で、他者に責任を押しつけるという態度に終始している。たとえば、町沢氏が母親に「今一番訴えたいことは何か」と尋ねると、こんな答えが返ってきたという。

「本人が病院に行きたがらない場合の医療体制が整っていない。心の闇を引き出すのが重要なのに、本人が話そうとしない。いじめについて聞いても『もういいよ』と答えるだけ。医療側から動いてくれるシステムになって欲しい」(『週刊文春』2000.5.25)

 本人が話そうとしないのは、自分に問題があるのかもしれないという問題意識すらない。というより、自分の問題を見ないようにするために、医療体制だとか、他者の問題ばかりを批判しているように見える。「心の闇を引き出すのが重要なのに」親には「本人が話そうとしない」から、医療の側でやってほしいのに、体制が整っていない、と言って批判している。自分が「心の闇を引き出せなかった」という反省がまず出てきそうなものである。それがいっこうに出てこないで、医療体制への不満ばかりが出てくるのはどうみてもおかしい。

 このように、母親が自分を正当化し反省しないという人格では、子どもが怒りと憎しみをもって暴力化していくのは当然である。少年の心を推測するに、彼の求めていたものは、母親なり父親なりが、体をはってでも、「刃物を集めている」ことに対して、叱り、止めさせるという態度ではなかったか。死にものぐるいになって、子どもにぶつかっていくという態度もなく、自分の責任に対する深刻な反省もなく、手に負えなくなった息子を精神病院に入れるという親の態度に対して、少年は「おぼえていろよ、ただではすまないからな」と言ったという。「目立つことをしたかった」という動機説明は、「目立つ悪いこと」をして、母親に復讐をしたかったという意味ではなかろうか。この少年は母性なき母親の犠牲者だとさえ言えるのかもしれない。

 五千万円恐喝事件の加害者の少年の「働く母親」が「だってお母さん、働いているんだから仕方ないでしょ」と言ったように、この「働く母親」も「働いているんだから仕方ないでしょ」という態度がなかっただろうか。母親が「働く」という錦の御旗を掲げると、子どもは正面切って批判しにくい。しかも幼児でもないのに、「お母さんが恋しい」などと言うことはプライドが許さない。だから正面切って「家にいてほしい」とは絶対に言わない。しかし本心としてはおそらく多くの男の子が(女の子も)「母親が家にいてほしい」と思っているのである。それを素直に口に出して言えない分、また母親が「働く」という錦の御旗を掲げていればいるほど、暴力的にならざるをえないのである。

 この心理が分からないままに、精神病院に「子捨て」をしては、捨てられる子ども自身は腹が立って煮えくり返るばかりであろうことは十分に察しがつく。つかないとしたら、その母親は母性が足らないということである。いや人間として想像力が足らない、感受性がないと言わざるをえない。

 

5 母はどうすればよいか


 誤解のないようにとくに断っておくが、私は母が働いていたからいけないと言っているのではない。母が働いていると必ず母性が欠けると言っているのでもない。ましてや、働いている母はすぐに仕事をやめて家庭に戻るべきだと言っているのではない。働かなければならない事情の人もいるし、働きたい人もいる。そういう人に言いたいことは、「子どもにとって母親の存在、母性というものは大切だ」といつも思っていて欲しいということである。そしてできるだけ子どもと一緒の時間を作り、優しさと慈愛を注ぐという気持ちで接してほしいと思う。子どもは母の愛を一番求めているものだからである。

 「そんなものはいらない」「母性なんて神話だから」「誰が育てたって同じよ」と開き直るのが一番いけない。そういう態度が、子どもから見ると一番腹が立つのである。そういう意味では、「母性神話」批判を繰り返しているフェミニストたちの害毒と責任は大きいと言うべきである。「母性神話」説こそが、母と子どもを引き離す役目をしてしまっているのである。

 もちろん専業主婦だからといって、自動的に母性を与えられるわけではない。子どもに対して愛情を注ぐという心がけは、専業主婦でも「働く母」でも同じである。

 私が「働く母」や「働け」イデオロギーに対して厳しく批判するのは、もっぱら子どもたちのためを思ってのことである。「働け」イデオロギーは子どもを切り捨てるのに手を貸している張本人である。

 今回の三つの17歳殺人事件について、母性の問題がまったく論じられないのは、いかにフェミニズムによって言論統制が進んでいるかの一つの証拠とも言える。母性を巡る事態は確実に悪くなっていると感じられる。この点を改善しないかぎり、少年たちの殺意は決してなくならないであろう。

 

6 「理想押しつけ」原因論の間違い


 もう一つ、少年たちの犯罪が起こると、必ず繰り返される原因説に、「理想を押しつけるからいけない」という説がある。このあいだ私がテレビに出たときにも、藤井良樹氏がしきりにその説を強調していた。曰く「こうあらねばならない」という理想を押しつけるから、その重圧によって犯罪に走るのだと。

 これは「学級崩壊は子どもたちに『いい子』を押しつけ、ストレスを与えるからだ」というストレス原因説と同じ論理である。またフェミニストたちの「母性を押しつけるから、そのストレスからわが子虐待に走るのだ」という説とも同じである。

 彼は「権威など壊れてしまっているから、そこから出発しなければならない」と言うが、そこから出発して何を建設するのか、何も言えない。権威が壊れてしまっているところに、正しい権威をもう一度立て直すべきなのか、一切の権威も秩序もいらないというのか、どちらなのか。  

 「こうあらねばならない」と言われたときに、それに負けてしまうのは、父性によって与えられるべき精神的強さを持っていないからであり、また母性による基本的な精神的安定を獲得していないからである。結局、父性と母性が足らないという問題に行き着くのである。その問題に正面から向き合わないで、ただ既成の伝統や権威を崩しさえすれば自動的にうまくいくと考えるのは、あまりにも浅はかである。

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