17歳殺人の意味するもの

     (平成12年5月7日初出)


 このところ精神病(分裂病)によると思われる殺人事件が頻発している。古くは「酒鬼薔薇」を名乗った少年、そして文京区の春奈ちゃん殺人事件、京都の小学校2年生殺害事件、また今度は17歳の少年が主婦を殺した直後に、別の17歳の少年がバスを乗っ取り殺傷事件を起こした。

 今回は17歳の少年が二人も立て続けに異常な殺人を犯したというので、人々は17歳という年齢に何か意味があるのかと問うている。17歳というのは偶然だが、思春期という点では「酒鬼薔薇」少年の14歳も含めて、必然性がある。思春期は人間の一生の中で最も不安定な時期だからである。

 しかしもちろん今回の事件は単に思春期であるということが原因ではない。思春期であるということは、犯罪の引き金になったり、犯罪への抵抗力を弱める働きをするだけである。本当の原因はもっと根元的なところにある。それを明らかにしなければ、この種の事件を防ぐことはできない。以下、これらの事件の根源を探ってみたい。

 

(1) 無目的殺人という精神病殺人


精神病という認識が必要

 今回の二つの17歳少年の殺人事件に共通な点は、どちらも「意識的な」動機や目的がないという点である。金品を奪おうとか、恨みを晴らそうとなどという目的がないのである。この点は精神病殺人の第一の特徴である。 

 5月1日に主婦を刺し殺した愛知県豊川市の少年は、「数日前から人を殺そうと思っていた」「人を殺すという経験をしたかった」「相手は誰でもよかった」「たまたま被害者宅の玄関が開いていたから」と述べている。つまり人を殺すこと自体を目的にしているのであり、殺すことを手段として「恨みを晴らす」とか「何かを得る」という目的を達するというのではない。攻撃的衝動を充たすことそれ自体が目的なのである。

 また5月3日から4日にかけて17歳の少年が西鉄高速バスを乗っ取って殺人傷害事件を起こした場合は、無目的性はもっと明瞭に現われている。乗っ取ってのちに要求したことはただ「もっと東に行け」「霞ヶ関に行け」ということであり、そこへ行って何かをするという目的は無かったようである。乗客を支配し、殺傷することそれ自体が目的だったように見える。警察が動機を聞くのに対しても、「今は言えない」と言っているそうだが、じつは意識的な動機がないのである。

 じつは限られた地方でしか報道されなかったが、まったく同様の「無目的の」、すなわち「殺すこと」自体を目的とした殺人事件が、昨年1月に新潟県の小千谷市内で起きていた。高校三年生(当時)が71歳の女性を金づちのようなもので数回殴って殺した。この少年は「あの人でなくてもよかった」「人を殺したかった」と繰り返した。(『朝日新聞』5月5日「天声人語」)

 さて、これらの事件の第二の特徴は、二人の少年とも、「人間的な感情の欠如」が見られるという点である。人間的な感情がなくなるということは分裂病の特徴である。二人とも人を殺すことをなんとも感じないという心の状態にあったらしい。

 もちろん感情が欠けている場合がすべて分裂病だと言うのではない。たとえば、少女をコンクリートづめにして殺してしまった少年たちは、半ば面白半分にいたぶっていて殺してしまい、それを隠蔽するためにコンクリートづめにした。その場合にも人間的な感情の鈍磨が指摘できる。

 しかし今回の二つの場合には、最初から残忍性を持っているところが特徴である。主婦殺人犯の少年は主婦を40回も刺したり殴ったりしている。殺すという目的から見ると「必要以上の」残忍さである。乗っ取り犯の少年も、「連帯責任だ」などという理由をつけて、無差別に殺傷を繰り返した。瀕死の女性に対して、足蹴にしたり、刃物でついたりして生死を確かめようとし、「生きているのか、死んでいるのか」という言葉を投げつけ、写真を撮ったりした。これらの行為は、冷血な攻撃性そのものの発現を目的としているとしか言いようがない。だから攻撃性にためらいがないのである。

 第三の特徴は計画性である。主婦殺人の少年は、事前に下見をして、被害者宅の玄関がいつも開いていることを確かめている。そして逃走用の着替えを藪の中に隠しておいてから犯行に及んだという周到な計画性を示している。しかしその計画性は完全でなく、現場に多くの遺留品を残しており、証拠を残さないという目的をまったく持っていなかったことを示している。ただ人を殺したいという衝動を満足させるためにのみ、計画性が発揮されている。それ以外のことは頭にないのである。

 バス乗っ取り犯の少年も、できるだけ威力のある刃物を買い、バスを乗っ取ってのちも、脅威になりうる男性を後部座席に移したり、降ろしてしまったりするなど、自分の支配欲と残忍さの発揮のためには緻密な計算をしている。つまり手段の合理性はあるが、目的や判断の合理性はなくなっている。すなわち自分の行為の結果に対する責任感、他人にどういう結果をもたらすかという判断力、他人の痛みに対する想像力をまったく欠いている。これも分裂病の特徴である。

 第四の特徴は、自分勝手な理屈を考え出している点である。人によると、壮大な理論体系を作りだし、壮大な世界観を持つに至る例もある。自分の不可解な感覚や感じ方(幻聴や幻視)や想念を説明するために、独特の理論を作り出す。その典型的な例がシュレーバー症例である(拙稿「シュレーバー症例についてユング心理学は何が言えるか」、『ユング研究』2号所収、参照)。

 自分の行為や想念を正当化するために理論体系を構築するという特徴は、今回の二人について言うとまだ十分になされていない。主婦殺しの犯人は「人を殺す経験が必要だ」と言い、乗っ取り犯人は「動機は言えない」と言っているだけである。これは分裂病といっても、まだ初期であるか、厳密な意味で分裂病とは言えない段階にあることを示しているのかもしれない。

 以上で明らかなように、精神病の場合には知能は正常に働き、手段の合理性と緻密さも、犯行を正当化する理屈を考え出す能力も持っている。しかし人間的な感性と全体的な判断のバランスが失われているのである。

 このように考えてみると、この二人の少年の殺人行為は精神病によるものと判断すべきである。そのような認識に立った上で、少年たちを精神病に追い込んだ要因を客観的に探り、そうした不幸をなくす方策を考え、またこの少年たちに対する態度(処分など)を決めるのでなければならない。

 しかるに、警察や検察は犯人に責任能力がないとなると罪に問えないというので、精神病ではないという解釈をしたがる。弁護団の方は逆に精神病にしたがる。大切なのは罪を重くするか軽くするかではない。もちろんそれは個人にとっては重大な意味を持つが、しかし社会的な観点から必要なのは「なぜ思春期の少年が精神病になって犯罪を犯すようになるのか」の原因を見定めることである。

 大切なのは、真実を見つめつつ、対策を考えることである。精神病ならはっきりと精神病だと認めた上で、対策を考えるのでなければならない。そうでないと、今の日本の青少年の心の状態から考えるに、同じような事件は後を絶たないであろう。そこにはきわめて一般的な要素が見られるからである。一般的だとは、一つには思春期の心理が関係している点と、いま一つは母性も父性も不足しがちだという現代日本の傾向である。

 

思春期には心が狂いやすい

 思春期には心の病いにかかったり、犯罪を犯したりする確率が非常に高くなる。それは思春期が一生のうちで最も不安定な時期だからである。

 この問題については拙著『母性の復権』(中公新書)の中の「なぜ心の病いは思春期に発症することが多いか」という項(p.171〜173)を参照されたい。

 要点を言うと、思春期というのは、自分なりの心の価値体系(自我)を形成するときであり、幼児期からの親や社会から与えられた価値体系に満足できないで自分なりのものに作り変えるという課題を持つ時期である。

 したがってこの時期はきわめて不安定な心理状態になり、心に大きな負担やストレスを持つ。その困難を切り抜けることができるためには、心の基本的な安定や強さが要求される。それだけの力量を持たないと、心はバランスを崩し、病的になってしまう。大切なのは思春期になる前に、基本的な安定と力とをどのようにして獲得できるかである。そのために必要なのが母性と父性である。

 

母性欠如と父性欠如の相乗効果

 思春期の心は不安定になりやすいが、そのときに心のバランスを取る上で決定的に重要になるのが、乳幼児期に確立される基本的な安定感である。乳幼児期に母性という基盤を十分に与えられた人間は、心のあり方や環境が大きく変わっても、その変化にもかかわらず心の安定を大きく崩すことがない。また善と悪をバランスよく統合できるので、善悪の判断力も備えることができる。(以上の点については拙著『母性の復権』の第三章の4「思春期に現われる母性解体の悪影響」p.170〜185を参照されたい。)

 次に父性を十分に与えられている子どもは、心が少々不安定になっても、それに耐える力を持っている。父性は厳しく鍛えるという性質も持っており、受験に失敗したくらいで挫折しないだけの強さを身につけさせることができる。父性が不足すると人間は無気力になり、少しのことで挫折して、不登校、引きこもり、家庭内暴力、非行化への道を歩む。(父性については拙著『父性の復権』を参照されたい。)

 多くの事例を見てきて私が切実に感じていることは、父性と母性の両方が欠如したときに、人間の心は決定的な崩壊を起こすということである。父性か母性のどちらかがある場合には、人間の心は最終的に崩れてしまうことは少ない。たとえば、母性がなくても、父性による強さを与えられている場合には、逆境や不安定に耐えることができる。また父性がなくても、母親の愛情が十分にあれば、子どもは危機においても頑張れるものである。

 ところが母性不足で基本的な安定を欠いているところに、父性による強さも与えられていない場合には、心は大きく崩れてしまう場合が多い。主婦殺しの少年の場合には1歳6カ月にして両親が離婚し、母親はいなくなった。母親の代わりをした祖母の母性がどのようなものだったのかが問題である。また父性がどういうあり方だったかは不明である。

  ただ、一つ気になることは、少年が中学生のときまで、祖母を「お母さん」と呼んでいたという事実である。子どもが自分からそういう呼び方をるはずがないから、幼少時から大人がそう呼ばせていたのであろう。中学生になったとき、そのごまかしに少年が気づいたとしたら、少年の心は大きく傷ついた可能性が高い。だまされていたということは、母親がいないという事実以上に心を傷つけるものである。最初から「おばあちゃん」と呼ばせていたら、少年の心はまったく違った軌跡を辿ったかもしれない。

 バス乗っ取り犯の場合には、母性がどういうあり方だったかはまだ不明だが、父性が無かったことは確かなようだ。というのは、少年が高校中退後、家に引きこもっていたとき、「意のままに」振る舞わせ、父親や母親は息子の「どこかに連れていけ」という命令を聞いて広島や岡山にドライブに連れていった。それを言うがままに聞いていたというのは、正しい父性がなかったことを示している。おそらく両方の事例において、父性も母性も不足していたか、正しく機能していなかったと推測される。

 心の発達の過程で、父性と母性のバランスのとれた作用が不可欠なのである。重大な犯罪を犯した事例を見ると、必ずといっていいほどに、父性と母性に問題がある。それが殺人事件の背後にある根本的な問題である。

 

芹沢俊介氏の見当外れ

 しかるに、たとえば、芹沢俊介氏はバス乗っ取り事件の背景に「いじめ」を受けていたという事実を重視している(『産経新聞』5月7日)。いじめの被害に対して、被害者が加害者に直接やり返せば、心に大きな傷を受けないが、それができないと大きな傷が残り、加害者に反転して弱い者を標的にしたのだという見方である。

 いじめに対する復讐の心理が働いていたことは確かであろう。しかし、いじめに対してどう反応するかは、それまでにどういう人格に育っているかによって決定的に左右される。母性によって、人間に対する基本的な信頼感が与えられていたり、また父性によって、多少のからかいや意地悪に対して忍耐することができる力をもっていれば、たとえいじめられたとしても、人格に決定的な損傷を受けることはないのである。

 芹沢俊介氏の見方は、あまりにも表面的だと言わざるをえない。氏が両親に批判的なのは、ただ入院させるときに本人に相談したか否かだけである。そうした言い方は、あいもかわらず、「子どもの意志と人権を大切に」という立場の表明でしかない。子どもの意志がはっきり出せるほどに発達していない場合が多いという問題、人権を制限せざるをえない場合もあるという問題はまったく考慮されていない。

 

家庭のあり方にメスを入れるべし

 このような事件が起こると、自分のイデオロギーから勝手に論評する者が多い。春奈ちゃん事件のときには、「専業主婦の憂うつ」のせいにして、『朝日新聞』などはそうした特集を組んだほどである(それは見当違いもはなはだしかったが)。しかし今回の主婦殺人犯人の両親が離婚して、母親なしで育ったことについては、新聞は決して特集を組もうとはしない。

 殺人犯については、たとえ少年であっても、プライバシーや人権が制限されるのはやむをえない。その育ち方や家庭のあり方について、きちんと明らかにすべきである。また両親はそういう問題の解明について積極的に協力すべき義務がある。「酒鬼薔薇」少年の両親はその点では精一杯の努力をして、自分たちの子育てのすべてを明らかにする本を出版した。それによって多くのことが明らかになった。(この点については拙著『母性崩壊』PHP研究所、p.71〜80を参照されたい。)

 

(2) 精神病殺人と精神科医の責任 


 さて、以上の考察によって、精神病殺人というものがありうることは了解されたと思う。

 では、そのような精神病殺人が起きる可能性があるとき、または起きてしまったときに、関係者はどう考え、どう行動すべきかを、予め了解しておくことが必要になる。しかし今の日本では、精神病による殺人の危険について教育者や警察をはじめとした関係者のあいだの認識に不十分な点があることは否めない。少なくとも社会的な規模でのコンセンサスは存在していない。

 これらの少年たちには、精神病を疑う数々の徴候があった。「中学のころから性格が大きく変わった」「小動物を殺していた」と友人たちが証言しているように、家族や学校関係者からみれば、「普通でない」何かを感じとることはできたはずである。

 そうした場合には、症状から精神病の可能性を判断して、早めに精神科の専門家に委ねるという体制を作っていかなければならない。ただし、それは専門家が本当に専門家の名に値し、信頼するに足るものである場合のことである。その専門家の中に不適格者がかなりいるというところに、今の日本の病根の深さがあると言っても決して言い過ぎではない。

 

精神科医の判断ミス

 そのことは今回の事件で白日のもとにさらされる。すなわちバス乗っ取り殺人犯の場合は、入院していた精神科病院を一時帰宅していたときの犯行であった。

 これは明らかに、一時帰宅させた精神科医の責任が問われる。はっきり言って、医師の判断ミスである。この少年は分裂病の可能性が強いが、病名はともかく、この少年が暴力的であったことを医師は当然把握していたはずである。その暴力性が緩和されたと判断したのかもしれないが、結果を見れば大きな判断ミスであったことは明白である。

 少年はそれまでも両親に暴力をふるっていたと報道されている。また刃物を通信販売で購入し、部屋に引きこもっていたという。もしそうだとしたら、少年の心の中には両親に対する憎しみまたは怒りが存在していることになる。いや単に両親に対する憎しみだけではなく、憎しみ一般であったかもしれない。

 その憎しみないしは怒りが客観的に見て正当なものかどうかは、この場合別問題である。主観的に攻撃的な心理を持っているとしたら、それは他人に対する無差別な攻撃へと転換される可能性は十分に予想される。専門家ならば、その程度のことは常識のはずである。

 その攻撃性が病院にいるあいだに緩和されたと見えても、もともとの攻撃の対象であった両親の中に返せば再び再燃する可能性は十分に予想される。また予想すべきである。その辺の判断に私は甘いものを感じないではいられない。

 私は結果から見て、医師の判断が間違っていたという結果論を述べているわけではない。医師が把握していた情報からして、当然この事態は予想できたはずであるし、その程度の可能性を予想できないとしたら、専門家としてあまりに無能であり、落第だと言いたいのである。

 

問題の根は全共闘にまでさかのぼる

 ただしこの問題は担当の医師だけの責任として断罪するのは、少し酷だし、また公正でもないであろう。

 問題の根は深く、少なくとも30年前までさかのぼらなければならない。当時の全共闘運動の一環として、医学部の、とくに若手精神科医や学生たちが、患者を強制的に入院させておくだけでなく、積極的に社会復帰させる方向を打ち出した。彼らは患者の人権や人間性の尊重という大義名分を掲げていた。

 その影響力は非常に大きく、その後の精神科医療のあり方を大きく変えるものとなった。患者を社会に出していくという「開放治療」の方針によって、患者が殺人事件を起こした例が幾度もあったにもかかわらず、この問題についての議論が社会的に広くなされたという事実がない。

 今回の事件の少年の一時帰宅が、そういう背景と具体的にどう関係しているのか、私には知るよしもない。担当医がそのような思想の影響をどう受けているのかも分からない。しかし直接的な関係はともかくとして、間接的には上記の事情となにがしか関係がないとは言い切れないであろう。少なくとも、患者を社会に出すことの危険性についての認識が甘くなっていることは事実ではなかろうか。

 問題は、患者の人権と、患者に殺される危険のある人々の人権は、どういう関係にあるのかということである。この問題が、もっと意識的な議論の対象にされなければならない。

 私の意見では、患者の人権は一定の制限を受けて当然である。その判断が専門家に委ねられる。だからこそ、専門家の責任は重大であり、またつねにその眼力(診断力)を養うことが要求されるのである。そのような責任と使命の重大性を専門家たちがどの程度自覚して事に当たっているのか、疑問を感じさせるこのごろの事件ではある。

 もちろん精神科医だけでなく、社会全体で、精神病の患者をどう考え、精神病殺人にどう対処するのかについて、もっとオープンに徹底的に議論することが緊急に必要である。

 

 

追記(平成12年5月16日)

 上記の評論は事件が起きて直後の報道をもとに書いたが、その後の情報によって付け加える必要が出てきた。以下、いくつか気がついた点を述べておきたい。

 

1 犯人の妄想について

 主婦殺人犯人も、バス乗っ取り犯人も、妄想と現実の区別がつかない状態にあったことは確かなようである。これは明らかに分裂病の特徴である。また第一次的な妄想を正当化するために二次的な妄想体系を作るという特徴も萌芽的に見られるようである。その体系はたいてい勝手にイメージした神を中心にしている。酒鬼薔薇を名乗った少年も「バモイドオキ神」を作り、その神を中心にした妄想体系を作る途上にあったと見られる。今回の犯人たちにおいても、まだそれほど発達していないとはいえ、そうした方向性が見受けられる。すなわち前者は「人を殺す体験が必要だ」と考えていたが、それはなんらかの妄想と関係していた可能性がある。また後者は運転手に「とにかく東へ行け」と命令しているが、「東」が彼の心の中で何か重要な妄想的意味を持たされていた可能性がある。

 いずれにしても、妄想と現実の区別がつかなくなっていたという特徴は、たしかに見られる。犯人の少年たちが、分裂病の傾向を持っていたことは確かである。

 

2 少年たちの暴力的な傾向について

 『朝日新聞』5月15日付によれば、中高生が「強い暴力的傾向」を持っていることが分かった。総務庁の調査によれば、男子の半数が「暴力をふるわれるのは相手を怒らせるようなことをしたからだ」と答えるなど、他者の暴力を容認する傾向を強く示していた。「実際の暴力に及ばないまでも、暴力衝動を感じている生徒は少なくない」。

 具体的には、高校生について「表に出ない暴力は多かれ少なかれみんな経験している」(男子78.1%、女子72.9%)、男子の14.7%が友達に暴力をふるったことがあり、14.2%が家の物など壊したことがあると答えた。「したいと思った」まで含めると、それぞれ倍増する。「むかついて見知らぬ人をなぐりたいと思った」という男子が10.4%、女子も3.4%いる。

 今回の17歳少年たちの殺人事件にも、単に妄想に動かされてというだけでない、明らかな暴力的傾向が見られる。一般的に言うと、母性が足らないと暴力的になり、それに父性不足が加わるとコントロールがきかなくなる傾向があることは、すでに指摘した。母性が足らないで育つと、愛情を与えてくれなかった母親に対する恨みや怒りが、世間一般に対する怒りにまで拡張されることは、臨床心理学的にはよく見られる現象である。主婦殺し犯人にも、バス乗っ取り犯人にも、この特徴が見られると思う。

 一般的に言うと、少年たちの暴力的傾向が増大しているという『朝日新聞』の記事は、社会的に母性不足が蔓延していることの一つの表われと言うことができる。

 

3 男子のプライドについて

 思春期の男子が精神障害に陥るきっかけとして、プライドという問題が深く関わっているものである。自我が形成されるためには、自尊心とか自信が必要になるが、そのときに十分な父性を経験していると、自分について自信を持っていることができるので、少々の屈辱にも耐えることができる。とくに肉体的な弱さによって「負けた」ときも、自分が精神的な価値を持っていることを自己確認して、自分を持ちこたえることができる。ところが精神的な部分に自信がないと、肉体的ないじめに会ったときに、精神までも参ってしまうことがある。バス乗っ取り犯人の少年が中学三年生のときに、階段から飛ぶことを要求されてそれに応じたことは、彼の心の弱さを示すものである。もし精神が強かったならば、それを拒否できたはずである。さらにその行為の失敗によって彼の心は決定的に傷ついたと思われる。

 そうしたプライド喪失体験は、しばしば受験の失敗によっても、もたらされる。親ががっかりするのが一番悪く、それを感じて親の期待に応えられなかった自分をふがいなく感じ、余計に自信を失うのである。 

 このように、思春期のプライドが傷つくという経験が、分裂病的な(あるいは境界例的な)精神状態に陥る大きな要因となる場合が多い。その背後には、父性不足で育ったために、そうした挫折体験に対する抵抗力が不足しているという問題が横たわっている。

 

4 親の態度について

 バス乗っ取り犯人の親が、少年を精神病院に入れたり、「説得する自信がない」と言ったことを、「親の義務を果たしていない」などと批判する人がいるが、それは間違っていると私は思う。

 少年が家庭内暴力をふるい、ネットを通じて刃物を買うまでになったことについては、親として不十分なところがあっただろうとは推測できる。しかし親としての能力が十分にないという人がいるのは仕方ないことである。そういう場合に、自分たちの限界を悟ったなら、他人や社会(警察や精神病院)に子どもを委託することは決して悪いことではなく、むしろ望ましいことである。この親はその意味で正しく判断し行動したと言うことができる。委託された病院が正しい判断をしなかったことこそ責められるべきである。

 

5 男はだらしなかったか?

 『産経新聞』5月16付に、木村治美氏が寄稿し、「日本の男たちの不甲斐なさに涙が出た」と述べている。

 「犯人の少年は出刃をもっているとはいえ、こちらには五人いた。通路を歩きながら後姿を見せるときもあったのだから、示しあわせれば、あるいは一人が組みつけば絶対になんとかなったはずである。」

 「人質になっているいたいけな子供や女性たちを見捨てて、自分たちだけオメオメと解放されてよかったのか。女子供を守る気概がないのは、国を守る気概がないのに通じる。無抵抗主義は日本そのものの姿である。」

 「今回の事件は、父親不在社会の象徴的出来事である。」

 これを読んでまず感じたことは、ずいぶん感情的だなということであった。こういう事件に対処するときに、感情的なのが一番危険なのである。

 この投稿は犯人が逮捕されるまでのテレビを見た直後のものだから感情的なのかと思ったが、記事によると「木村氏は現在も同じ問題意識をもっている」という。

 こういう感情的な「情けない男たち」という感想は、私は非常に危険だと思う。国を守る気概や弱い者を守る気概は必要である。しかし守るためには、「その場で組み付いて戦え」という、木村氏のような感情的な憤慨とはまったく別の、冷静な判断と緻密な戦略戦術が必要になる。

 一人が組み付けば「絶対なんとかなったはず」などというのは、まことに無責任な発言である。そのためにさらに犠牲者が増えたことも考えられる。

 犯人の心理的状態は、昔のことわざにある「きちがいに刃物」という状態そのものであったにちがいない。このことわざは「きちがい」という言葉が差別的だというので最近は使われないが、しかしそのときの犯人の心理的状態を示すのに最適なので、敢えて使った。この心理的状態のときには、「火事場のバカ力」という言葉もあるとおり、普通の数倍の力と瞬発力を発揮することがある。数人でしめし合わせたとしても、かなわない場合がある。ましてや、こちらには武器がなく、たとえ武道の心得があっても、成功するとは限らないのである。「生兵法は怪我のもと」ということわざ通りになる可能性も高い。もし失敗したら、激高した犯人が人質を皆殺しにしかねない状況であった。

 木村氏はおそらく武道や格闘技についてはずぶの素人だと思われる。素人が「ふがいない」などと感情論をぶってよい問題ではないのである。「ふがいない」のではなく、むしろ冷静な無抵抗の方がよかったのである。犯人をどう無力化するかというのは、その道のプロにまかせるのが最良の方法である。「無抵抗で待つ」というのが、こういう場合の原則でなければならない。

 大は国の存亡をかけた戦争から、小は子どもの喧嘩まで、自分を守るとか、家族を守るとか、弱い者を守るというためには、それなりの技術と判断が必要なのである。そういう果敢さと勇気とを男性に期待するというのなら、愚かな感情論でいきまいたりしないで、男性なりの冷静な判断にまかせてもらいたいものである。

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